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2011年1月

2011年1月31日 (月)

悪人になれとは言わないが・・・

こころの問題をかかえてしまった人や、病んでしまった人たちに共通して感じるのは、みなイイ人たちだということ。間違っても犯罪に手を染めたり、悪事をはたらいたり、人を貶めるようなセコイことをする人たちではない。誠実で、真面目で、そして心配性で・・・人から危害を加えられることがあっても、自分からそれをすることはない。

誠実にまじめに生きている自分と同じようにして、人も生きていると深く考えもせず思い込んでいるところがあるように思う。ところが世の中は、そんな人ばかりではない。聖書にも「蛇のように賢くあれ」とあるではないか。世の中の実態というか、誠実で無い人たちもたくさん入るのだという事実をしっかりとつかむことが大切だ。長年生きてきて、そんな単純なことがらの重要性を思う。

問題に悩まされるとき、その問題を起こしている人物がどんな人間なのか、冷静に探ってみる必要がある。この人は、そもそも人のことを尊重するような人なのだろうか。自分の思いをただ周囲に撒き散らしているだけなのだろうか。人を押しのけてでも、自分の利害を主張するだけの人なのではないだろうか。あるいは言葉巧みに近づいてきて、最後にはガッポリと大切なものを奪っていこうとしているのではないか。

すくなくともこちらの迷惑や被害のことなどさらさら念頭にない人物ならば、ほどほどにあしらっておくか、それとなく遠ざかるのがいい。そういう人は実に多い。毒針を秘めたサソリのような人に誠実な対応を見せてはいけない。ただ見くびられ利用されるだけだからだ。まちがっても相手を変えようなどとは思わない方がいい。他人を変えられるのは他人自身しかいない。本人がこころから改心しないかぎり、人は変わらない。


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朝の中央アルプス(駒ヶ根側から)


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2011年1月30日 (日)

不完全であること

衛藤信之さんの本に、非常に示唆に富む章がある。いわく、『不完全であることを肯定しよう』。

つまり、リラックスとは力を抜くことなのに、そのリラックスを求めるために肩肘張って完璧なリラックスを求めずにはいられない。そんな「完全病」にかかっている相談者さんが多いのです。すべて完璧でないと幸せになれないと思いこみ、未完成や未達成であることを許容できないのです。

衛藤信之著『今日は、心をみつめる日。(Amazonへリンク) 』p.54

自分の若い頃にも似た傾向があって、思い当たるフシがありまくりだ。あたまの中で、幸せな状態を想定して、それを実現すべく努力するんだよね。そして実現できなくてたいていはどこかで挫折する。

この「あたまの中で想定した幸せな状態」というのが、くせものなんだよね。そもそもこれが間違っていることが多い。いくら努力をしても、本来無いものを求めていたりする。蜃気楼という光の屈折現象で生ずる映像があるけれど、これに似ている。そこに実体は無い。だけれど涼しげなオアシスなどが見えている。

幸せな状態をあたまの中で想定するということは、現実の自分はちっとも幸せではないし、何にも実現できていないし、完全じゃないと考えているということだ。こんな自分はダメだという認識が根底にある。ダメだから変わらなければならないと固く信じている。自分探しとか言っちゃって。いつか実現すると放浪している。

じつはそんな日々を送っているうちに、やがて年寄りになってしまうのだ。いまだに自分探しをしている老人みたいなイメージ。知り合いにもこんな人間がいる。還暦も過ぎているのに、いまだに未来に向けて頑張ろうとか、出発だとか言っている。で、具体的に何をやっているかというと、幸せを実現するための方策はさっぱり。あたまの中で作り上げた蜃気楼に振り回されているような人生を送っている。

いつの時代のどのような人生だって、完全とか完璧とかいう状態はなかったと思う。現実は不完全で、足らないことばかり、瑣末な出来事の連続で、いつも生活のためにあくせくしていたりする。これが本当の人生の姿だと思う。だから老齢になって円熟するとか、悠々と生きているなんていうのは、外から見ただけの外見の姿だと思う。たぶん死ぬ間際まで、同じだなと思う。バタバタしていて楽なことはなくて、自分は不完全でできないことばかり。

でも、今はっきり思うのは、この泥臭い生活の中に幸せはあるし、家族や友人との語らいの楽しさが詰まっているということだ。明日にでも病気か何かで世を去らなければならないとわかったら、この泥臭い生活、バタバタと忙しく働いているこの日々が、おそらく黄金の輝きをもって脳裏に浮かぶだろうと確信している。失ってみてわかる価値というものがあるけれど、そんな感じ。これこそ幸せの日々だったと。不完全でもいい、想定した成功や名誉なんかなくていい、あの日々こそが幸せだったと。

だから自分の人生で何をしなければならないのか、比較的はっきりしている。すくなくとも蜃気楼のような在るような無いような、あやふやなものに振り回されることではない。

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駒ヶ根東伊那  暮れ行く水田(5月)



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2011年1月28日 (金)

真剣さとユーモア

昔から、ユーモアとはなんだろうと解説を試みた本がたくさんあった。でもはっきりとユーモアをつかまえられないのだよね。本人が真剣になればなるほど、聞く方はどことなく可笑しみを感じるという経験をよくする。人生の重大な相談を聞かされてしまうようなときに、なぜか反対のことを考えてしまう。じゃ、何が可笑しかったのだろうと考えるとよくわからない。

バルタザール・グラシアンの箴言を読んでいて、なんともなく可笑しいことがある。グラシアンは真剣に綴っているのだろうけれど。けっして軽んじているわけではないのだけれど。

ときには強い感情を表に出す

ぜんぜん怒らない人間というのは、どう見ても人間味に欠ける。強い感情があることはとても大事なことだ。すぐに鳥の遊び場になってしまうかかしになってはいけない。・・・・(中略)ひたすら優しくするのは子どもと愚か者に対してだけで十分。

バルタザール・グラシアンの 賢人の知恵』84より

かかしのまわりに飛び交っている小鳥たちの騒がしいさまが思い浮かんで、なんだか可笑しい。重んじられていない人物の周りで、子どもたちや、おせっかいな人、おしゃべりな人が勝手にいろいろなことを口走って、たむろしている感じ出ている。Shut up!と叫ぶべきだとグラシアンは忠告しているわけだ。優しすぎるお父さんは、こんな危険に身をさらしているかもしれない。

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駒ヶ根の駒ヶ池から、木曾駒ケ岳をあおぐ

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2011年1月27日 (木)

退屈とは・・・

若い頃から、退屈することを恐れ、そもそも退屈とはなんだろうと考えてきた。いまだに考えはまとまっているとは言いがたい。しかし何点か明確になっていることもある。

退屈とは、幸福の到達点で現れる。なにも幸福の絶頂を意識しなくても(意識できなくとも)、退屈はやってくる。退屈するとは幸せである(恵まれている)ということだ。

人間は、こころが未来のことに向かっているときが、いちばん生き生きとする。やりたいことがあるときにいちばんわくわくしている。退屈しているとき、こころは現在にうずくまっている。だから正反対。

面倒くさい。やる気がおきない。じつは退屈している状態は人間の本能に照らし合わせると苦痛な状態。自分からやりたいことがないとは、ちょうど牢獄につながれて自由を奪われている状態とよく似ている。鉄格子で行動が止められるかわりに、面倒くさいという気持ちがこころに鎖をつけてしまって、行動を制約する。

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ボタンの開花(6月)

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2011年1月26日 (水)

自分にとって・・・

知らず知らずのうちに、人間の考え方は自分中心に染まります。たとえて言うと、天動説。自分は動かないが、周りのすべては自分を中心に動け、と。

自分にとって、その仕事は何なのか、上司は何なのか、自分にとってこの親は何なのか、自分にとってこの恋人は、あるいは妻は何なのか。自分にとって、この・・・は?と、いつも自分にとって得なのか、価値があるのか、意味があるのかと問いかけます。

損はしたくない、苦労はいやだ、楽がいい、楽しませてくれるものがいい、そういう人がいい・・・

こうやって何十年も生きていくと、たぶん自分にとって得なことや楽なことが自分の周辺に集まります。そして生活は充実するでしょう。そういうものを収集してきた人生だったから。

でもこころの充実感は、まず得られないでしょう。たぶん孤独で、味気ない。人生が薄っぺら。自分を中心に、自己を富ませようとする試みは、なぜか別の結果を生みます。

この理由は、たぶん人間は一人で自分中心に生きるスタイルが、根源的な幸せ感というべきものと結びついていないからです。この理由はよくわかりませんが、たぶん人間の幸福感を決めている遺伝子がそうなっているのです。自分が、相手にとってどんな存在なのか、どんな存在であるべきか、他者の存在が関係すること、その辺のことがらが関連しています。


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庭のイングリッシュローズ(2010年9月)


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2011年1月24日 (月)

怒りという感情

にせの善人の話の続き。

頭でっかち善人になると、たとえばヘンなことが起きてくる。善人は怒ってもいけないし人を貶してもいけないというような、みょうなルールを作ったりする。そのことが自分を縛り付ける呪縛の縄になったりする。

たとえば、人を故意に傷つけるような無作法な行為や言葉に対しては、それは無作法だと抗議しなければならない。状況によっては、人を叱り付ける必要もあるし、毅然と怒りをあらわす必要があるものだ。

世のなかにはさまざまな人間がいて、すべての人が思慮ふかくやさしいわけではない。たいした考えもないのに思ったことを口にする不用意な人や、親切心のつもりで余計な干渉を繰り返す人もいる。本人はぜんぜん悪意を持っていないので、それを当然だと思っているのだ。したがって始末が悪い。

でも彼らの言うままやるままに任せておくととんでもないことになる。しかし、にせ善人になると、えてしてやりたい放題に翻弄されてしまう。しかし自尊心を大切にしなければならない。自分自身を大切にできない人に、他人を大切にする行為はできないものだ。

バルタザール・グラシアンは言っている。

『俗悪な人間とは一切かかわりを持ってはならない』

『たくらみをもつ相手にはスキがないことをわからせよ』

(注)バルタザール・グラシアン著

賢者の教え―せち辛い人生をいかに生きぬくか (リュウブックス)』経済界刊 


怒りを感じるような場面に出会ったら、ぜひ自分を大切にするための抗議をしっかりと表現しよう。手始めとして、たとえば・・・

それは無作法だと思います。

それって失礼じゃないですか?

どうぞお構いなく、自分でできますから

と言える習慣をつけよう。それができるだけで自分の精神の健康度がグッとアップする。


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ナニワイバラ(6月)


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2011年1月23日 (日)

にせ善人

若い頃に、森田正馬博士のノイローゼ療法に関する著作をたくさん読んだ。森田博士には水谷啓二という高弟の方がいて、やはり著作をたくさん出されていて、こちらもむさぼるように読んだ。いまでも心に残るのは、水谷氏の『にせ菩薩になるな』という教訓だ。

当時、あまりこの意味がすっと飲み込めなかった。その理由は今ではよくわかる。頭の中が観念的で、実践的でなかったということなのだが、その答えを言葉として聞いただけではたぶん理解しにくいと思う。若いということは、経験が少ないわりに(少ないから)、頭の中は抽象的で観念的ということでもある。

菩薩と表現されているのは、むろん理想的な人間の生き方として賞賛されるべきものだ。だが、その生き方を貫くためには、世の中に在るありとあらゆる苦労、悲嘆、不運などをすべて包括する度量が備わる必要がある。さらにその人々を救うという大願を立てるのだから、人間力としては最上のものを要求される究極の生き方だと思う。もちろん若いひとのなしうるものではないと考えている。

ところが知性に優れ、情感に深く人の苦しみを見過ごせない優れた若い人は、えてして菩薩であろうという生き方を選ぶ。あるいは菩薩に少しでも近づこうと。・・・それはとても尊いもので、まったく責められるべきものではない。

しかし若いがゆえに観念的でその生き方が空回りするということなのだ。外見を覗くかぎりいつも人に対してはにこやかで、親切で、菩薩のような完璧な振る舞い、まちがいの無い完全な生き方というものを、演じているという状態が続く。そして自己の内部でその演技ぶりが、とてつもない疲労感となって襲ってくる。

その観念的なうわべの生き方と、自分の内部の本心とが、だんだん乖離してそれに耐えられなくなって、いつかバースト(破綻)してしまうことが起きる。正常な生活が営めなくなってついに精神科などに入院するというようなことがあったのだ。そのことを念頭に、『にせ菩薩になるな』と、水谷氏は著作に書かれたわけだ。

若くして組織の中で人の上に立つことになった場合などにも、同様な悲劇は起きる。いまふうに言えばウツ症状に陥るわけだ。

「いつも人にやさしく、完璧な対応をしなければならない」と固く信じているとしたら、それはとても危険。悪意を持つ人に対しては毅然と闘わなければならないし、怠惰な人には厳しく叱咤激励する態度だって必要なのだ。にせものの善人になってはいけないという教訓なのだ。

とはいっても若くて人生経験の少ない人にとって、これはかなり難しい課題であるのは確か。では、どうしたらいいのか・・・言葉で表すのはとても難しいね。苦労が君を育てるだろうといったら突き放しすぎか。



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庭に咲いたクリスマスローズ(8月)


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2011年1月22日 (土)

大切な離別感というもの

子供みたいなわがままな願望を周囲や他人に押し付ける困った大人が多いことが、カウンセラーの衛藤信之さんの著書に出てくる。


『たとえば、ご主人が一杯機嫌で、ケーキをおみやげに帰宅したときに、たまたま体調が悪くて奥さんが横になっていたとします。
奥さんはご主人に気遣って、「あなた、ごめんなさい。せっかくのケーキだけど、今日は調子が悪くて食べられそうもないの。冷蔵庫に入れておいて、明日いただくわね」と食べられない理由をていねいに説明します。

ところが、ご主人はそれが許せません。「なぜ、オレが買ってきたみやげが食えない」「おまえはとにかく喜んで食べるべきだ」と文句をつける。

それだけでなく、「おまえは家にいるだけなのに、なんで体調を悪くするんだ」などといいがかりとしかいいようのない難癖をつけて奥さんを責めはじめます。

衛藤信之著『今日は、心をみつめる日。 』p.139』


この部分を読んで、おもわずヒザを叩いてしまった。つまり自分の周囲のある人物(Aさんとしておこう)を思い出したのだ。Aさんのことを言っているのかと思うほどだった。

決してAさんは悪い人ではない。むしろある人には親切でありいろいろと人のことを心配もし可愛がるほうだ。だがこの人は好かれていない。むしろ周囲のだれからも敬遠されているといっていい。自分流の親切の押し付けが、なんとも堪らないのだ。けっきょく人を束縛し自分の子分にしてしまうところまでいく。子供時代なら可愛げがあるが、中高年になろうというような人にまで同じなのだ。

相手にされないために、相手をしてくれる人をいつも探している。そして誰かが捕まっているのを見ると、なにやらホッとする。「やれやれ、あちらの方に行ってくれた」と胸をなでおろすような人物なのだ。

衛藤さんの本によると、このような人は心理学的には「健全な離別感が形成されていない」というそうだ。離別感とは、「相手は自分ではない」ことをきちんと自覚し、互いに一個の独立した人格を認め、尊重しあうことだと。さらに、自分がハッとしたのは、次の言葉。


『ではその健全な離別感を阻害する要因は何でしょうか。それは相手に過剰なまでに見返りを期待したり、相手に度を過ぎた所有欲を抱くことです。「与える」とは反対の、「求めすぎる心」です。 

同書 P.141』


相手を可愛がっているようでいて、実はそうではないところが錯綜している。可愛がっているのでなく、自分を受け入れる相手を求めているだけだということだ。健全で対等な友人関係がつくれない。相手はいつも逃げていくので、最後には寂しい思いに陥る。幸せなゆったりとした人間関係とは無縁になる。

もっと言えば、自己愛の範疇から出ていないということなのだろう。相手に対して、自分を愛し自分をより所にして欲しいと願うということは、自分を思い切り可愛がり愛して欲しいといっているのと同様だ。いわゆる愛の渇望。さぞかし苦しいことだと思う。


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昨年のイングリッシュローズの開花


 

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2011年1月21日 (金)

ハッピーという状態

人間というのは、苦痛とかイヤなことには敏感にできている。それは自分が傷つかないようにしている自己保存の本能なのかもしれない。でもこればかり発揮していると、平穏に暮らせなくなってくるというヘンなところがある。

人間は、いま持っているものに対しては徹底的に鈍感。あって当たり前の感覚に陥っているものだ。そしていま足らないものや、苦痛なことが頭を支配している。現在持っているものへの関心と、これから欲しいものへの関心のバランスは、相当に後者に偏っている。まあ前者への関心はふだん頭に上らないといっていい。

でもそれはやはり考え方が相当に偏っていて、それがもとで自分でウンウン苦しんでいるということが多い。出世が遅いとかお金が無いとか、容姿がとかいろいろな悩みが日常襲ってくるわけだけれど、健康診断などで精密検査が必要とか腫瘍の疑いがあるとか、生命にかかわるようなアラームが点ると、いっぺんに日ごろの悩みなど吹っ飛んでしまう。

それはなぜかと考えてみると、命をいただいているという根本の事実を忘れて、日頃は、ああだこうだと贅沢なことをこぼしてきたからなのだ。命をいただき、健康でいられていたこと、自分が当たり前としていた持っていたものの存在に気づくのだ。もし不幸にして重い病気に罹ったことがハッキリしたような場合には、それまでの日常の平凡な暮らしの日々が輝いて見えることだろう。失ってはじめてその存在を知る、ということは多いよね。

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            駒ヶ根 天竜川の河原付近から中央アルプスを望む

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2011年1月20日 (木)

いちばん苦しいのは・・・

いちばんこころが苦しくなるときとは、結局のところ、人を憎んだり恨んだりするときです。お金が無いのも苦しいですが、お金が手に入ればケロッと直る。でも恨んだりしているこころは、実に苦しいものです。

なぜかといえば、相手を苦しめようとする意思が根底にあって、そのこころは自分にとっても苦しいのです。相手を苦しめようとしていながら、自分は安らいでいる、なんてことはありえません。人を呪わば穴二つという言葉がありますけれど、相手を苦しめることは自分も苦しむことと等価です。

これは自分で自分を苛んでいるようなものです。そのこころを手放してやらないかぎり苦しみはいつまでも持続します。まあ許してあげるという行為なのですが、それが口で言うほどなかなか実行できません。そんなことがわかるのに何十年とかかりました。年を重ねるとすこしは賢くなります。

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 駒ヶ根菅の台の駒が池から宝剣岳を臨む(2011/01/18)

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2011年1月18日 (火)

こころの疲れ

こころが疲れる状態というのがある。医学的にどうなった状態をさしているのかはわからないが、緊張が続いたとか、安らぐ時間が持てなかったとか、こころを酷使しつづけるときに感じる状態。

仕事で心身が疲れるならば、適度なタイミングで休憩を取ればいい。やっかいなのは、自分で自分のこころを追い詰めるようなことをしている場合。けっこうこれは多いと感じる。追い詰めてしまうのも自分なので、逃げ場がなく、ずっとストレスをかけることになる。

まじめな人とか、人に誠実な人が陥りやすいと思う。人には常にやさしく、しかも完璧に接していなければならないと、強く思い込んでいたりするとけっこうヤバイ。あと仕事は完全にこなさなければならないと堅く信じていたりすると、これもヤバイ。

世の中で「よい」と言われているものの中には、際限のないものが多い。人にやさしく接することを自分の生き方の信条にすえて、そのルールを自分の行動に課してしまうと、逃げ道がなくなるところがある。どこまで尽くせばやさしく接したといえるのか、その境界線は漠然としているからだ。完全を期すがゆえに、無限の労力を投じるような側面がある。

「よい」と言われていることがらは、けっこう危ない要素を持つというわけ。なぜならこころを完全に束縛してしまうから。世の中は、「ほどほど」とか「適当に」とか、そういういい加減に聞こえるやりかたで処理しなければならない場合がたくさんある。

そんなことを書いているうちに、ふと思い出した詩がある。吉野弘さんの「夕焼け」という詩。やさしい心を持った人は、いつも受難者になるという趣旨のフレーズが入っている。
有名な詩だから、WEBでも読める。もし興味があったら覗いてみてください。
吉野弘さんの詩『夕焼け』

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2011年1月17日 (月)

やらされ感

ふだんあまり使う言葉ではないけれど、けっこう重要な意味を持つ言葉だと思う。「やらされ感」という言葉。

自分の場合、サラリーマンという職業をえらんで、31年もそれを続けてきた。ほんとうは芸術系の進路を希望していたけれど、いろいろな反対に会い、結果的に技術者として生活する道をえらんだ。まるで正反対なところが自分でもおかしい。でもこころにはよくないことだったと思う。

個人事業を営むならば、人の関係に悩むことはがぜん少ないけれど、会社という組織に入って集団で(チームで、あるいは課で)仕事をするとなると、自分の意に染まない決定事項なんて山ほどある。自分がまちがっていると感じていても、その方針が決まってしまうこともある。自分勝手な言い分をいちいち通していたら、みなバラバラで仕事が進まない。

自分の考えとはちがう方針でも、それに従いその報酬を得る(つまり給料をもらう)ということばかりつづく。たとえ自分が小さなグループのリーダーになったとしても、さらにその上の組織の中においては、ただの一兵卒になってしまう。部下を従えているだけだ。

こうやってこころに折り合いをつけて、なんとかかんとか暮らしていく年月が増えていくと、こころは次第に順応していく部分も出てくる。自分の本心が曖昧になり、はっきりわからなくなっていくともいえる。こうして中高年になり、定年を意識するような年代になると、自分って何だっけと思い出せなくなってくる。これはとても危険な兆候だと思う。仕事中心、というか会社中心の生活をウン十年と続けるうちに、自分イコール会社生活になる。

会社員の頃元気だったひとが、定年になっても会社との関係を保とうとして、旧部下に連絡を取ったり、会社の近くの公園でブラブラ過ごすという人の話も聞いたことがある。奥さんとか家族とはもう完全に切れているんだね。だからいろんな悲喜劇がおきる。

そうなってしまうそもそものきっかけは、若い頃に意に染まない仕事を命じられたときの「やらされ感」をはっきり自覚できたかどうかだと思う。これはやらされている状態なんだと自覚するかどうかだと思う。会社を離れる勇気がないならば、自分の考えとは反対の方針であっても、懸命にやらなければならない。しかし、それを「自分の本心だ」とは思わずに、いつか自分の考えるように仕事をしてやるんだと闘志を秘めた方がはるかにいい。やらされ感をごまかして、本心を封印してしまう生き方は、のちのちいろんな問題を引き起こす発生源になる。自分の経験からよくわかるよ。

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2011年1月16日 (日)

自分を否定するのはまちがい

長年、生きてきたんだなと改めて思う。昨年、還暦というヤツを迎えてしまったわけだし。
むかしは、馬齢を重ねるなんて言い方もした。馬が何年生きるのか知らないし、馬がいくら長生きしても、それは無駄な年月だと言っているわけで、とても馬に失礼なはなし。まあ自分の生きてきた年月を謙遜して言っているわけだ。

これまでの人生を振り返ると、いちばん強く感じるのは、自分を否定する考え方は(まちがいなく)まちがいだということ。人間には理性とか抽象的な考えができるので、自分の存在を否定して生きるようなヘンな状態もできてしまう。

動物だったら、こんなヘンな考え方は決してしない。たとえば、自分がサメだったとして、サメである自分は、人間や他の魚からは恐れられ、だれからも愛されていないし、顔だってコワモテしてハンサムじゃないしと、いろいろと反省して、自分の存在を否定していました、ということは絶対にない。サメだって自分の持てる能力を万全に発揮しようと精一杯生きている。そこにぜんぜん否定的な要素は入っていない。

人間だけが、(そして敢えていえば経験不足で考えが未熟な人だけが)自分を否定すると考えている。人間も動物も植物も、自分の能力をいっぱい発揮して生きているのが本当の姿だと考えているからだ。自分の能力を自分を否定するために使うなんて、自己矛盾しているし、そんな状態が本来の姿だとは到底思えないからだ。自分の存在の死を願うために生きるということはヘンだ。また、それはこころの底からの本心だとは思えない。

ただ自分の存在と、自分のやっていることは分けなければいけないと思う。やってしまったことが悪かった、あるいはその行為はあってはならないことだ、ということはある。それには反省をして修正していけばいいのだと思う。

それなのに自分の存在自体が否定されたと感じてしまうのは、明らかに認識のひずみがある。拡大解釈ともいうね。認知療法はこのような認識のひずみを一つ一つ解きほどいていくわけだけれど、これはまた大きな話題になるので、また別の機会に。自分の存在を否定するのは、まちがいってことで、今日の記事はおしまい。

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2011年1月15日 (土)

いまごろわかるなんて遅いよね

このBLOGは、じつは昨年2010年3月に始めているのだけれど、何を書いていくのかがイマイチ絞りきれていなくて、そのまま放置状態になってしまった。自分の求めているものが見えていないなんてサイテーという感じだけれど、まあそんなことは世間にたくさんあるかも。

それはともかく、今日車のハンドルを握りながら、書くテーマがふっとわかった気がした。結論から言えば、いつももやもやと心が巡っているその中心点にあるもの。それは心だったのではないかと。

いちおう長年(ウン十年も)、サラリーマン生活を続けてきて、それにもピリオドも打っていまは別の生活スタイルを構築中だけれど、やはりいろんな経験をしてきている。イヤな目にもたくさん遭遇して、人生がイヤになった時期やノイローゼ気味(いまのウツみたいな状態)になったこともある。

いつも中心には、心の問題があったと思う。本もたくさん読んだ。哲学や宗教、禅仏教なんかはかなり勉強もした。心理学もいろいろと巡っている。そのテーマは、こころなんじゃないかと、今は思うわけだ。

そして若い人から相談を受けたり、娘からもカウンセラーに向いているんじゃない?と言われながら、自分はそんな柄じゃないとなぜか思っていた。でもやはりそれは当たっているのかも知れないと気づいた。なぜならいくら年月がたっても、いつも中心に心の問題が居座っているからだ。たぶんこれが自分の語りたいことがらでもあり、追求していきたいテーマなんだね。

ということで、昨年設定したBLOGの名前や記事や、もろもろを変更して再出発することにした。心を元気にする話題などを、自分のためにも、ぼちぼちと書いていきたいと思う。

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