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2011年1月23日 (日)

にせ善人

若い頃に、森田正馬博士のノイローゼ療法に関する著作をたくさん読んだ。森田博士には水谷啓二という高弟の方がいて、やはり著作をたくさん出されていて、こちらもむさぼるように読んだ。いまでも心に残るのは、水谷氏の『にせ菩薩になるな』という教訓だ。

当時、あまりこの意味がすっと飲み込めなかった。その理由は今ではよくわかる。頭の中が観念的で、実践的でなかったということなのだが、その答えを言葉として聞いただけではたぶん理解しにくいと思う。若いということは、経験が少ないわりに(少ないから)、頭の中は抽象的で観念的ということでもある。

菩薩と表現されているのは、むろん理想的な人間の生き方として賞賛されるべきものだ。だが、その生き方を貫くためには、世の中に在るありとあらゆる苦労、悲嘆、不運などをすべて包括する度量が備わる必要がある。さらにその人々を救うという大願を立てるのだから、人間力としては最上のものを要求される究極の生き方だと思う。もちろん若いひとのなしうるものではないと考えている。

ところが知性に優れ、情感に深く人の苦しみを見過ごせない優れた若い人は、えてして菩薩であろうという生き方を選ぶ。あるいは菩薩に少しでも近づこうと。・・・それはとても尊いもので、まったく責められるべきものではない。

しかし若いがゆえに観念的でその生き方が空回りするということなのだ。外見を覗くかぎりいつも人に対してはにこやかで、親切で、菩薩のような完璧な振る舞い、まちがいの無い完全な生き方というものを、演じているという状態が続く。そして自己の内部でその演技ぶりが、とてつもない疲労感となって襲ってくる。

その観念的なうわべの生き方と、自分の内部の本心とが、だんだん乖離してそれに耐えられなくなって、いつかバースト(破綻)してしまうことが起きる。正常な生活が営めなくなってついに精神科などに入院するというようなことがあったのだ。そのことを念頭に、『にせ菩薩になるな』と、水谷氏は著作に書かれたわけだ。

若くして組織の中で人の上に立つことになった場合などにも、同様な悲劇は起きる。いまふうに言えばウツ症状に陥るわけだ。

「いつも人にやさしく、完璧な対応をしなければならない」と固く信じているとしたら、それはとても危険。悪意を持つ人に対しては毅然と闘わなければならないし、怠惰な人には厳しく叱咤激励する態度だって必要なのだ。にせものの善人になってはいけないという教訓なのだ。

とはいっても若くて人生経験の少ない人にとって、これはかなり難しい課題であるのは確か。では、どうしたらいいのか・・・言葉で表すのはとても難しいね。苦労が君を育てるだろうといったら突き放しすぎか。



Srsany0022
庭に咲いたクリスマスローズ(8月)


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