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2011年2月

2011年2月28日 (月)

こころのしなやかさ

会社員だった頃、職場の健康相談員というのをおおせつかっていた。お医者さんのような専門的な技術で対応するのではなく、身近にいる人たちをそれとなく観察したり、声かけをするとか、むろん相談があればそれに対応する役目だった。実際はというと、相談はほとんどなく、大部分が周囲の観察という仕事だった。

背景には、ウツなどを始めとする心のケアの必要なケースが、職場内で急増していた事情がある。この10年くらいに倍増とかそういう急激な伸びを示す統計があるのだ。したがって健康相談員になった人には、こころの問題についての知識や常識を得るための研修制度があって、専門家の講演やケーススタディなどを学ぶ。

専門家からうかがう話のなかで、そうなのかと意外に思う話が多い。たとえばウツになりやすいタイプというのがあって、意外なことに元気いっぱいでどこから見てもこころの病とは無縁だなと思われる人。積極的でバリバリ仕事をするやり手が罹りやすいということだ。

その理由は、周囲の期待や要請に対して、自分の実力以上に頑張ってしまうという傾向が顕著ということなのだ。つまり自信があふれていて、前向きにものごとに取り組むそんな人が陥りやすいということらしい。むろんやることが順調ならば、どんどん仕事をこなし周囲からは有能な社員、上からは幹部候補とみなされるタイプである。

自信があるだけに、全部自分で背負い込む。それが実力を越える内容のものであっても、人に頼むという選択肢が、頭にない人だ。その仕事のスタイルが立ち行かなくなったときが危ない。台風などの大風が吹いたときに、こんな大きな樹が倒れてしまうものなのかと驚くことがある。外見は立派でも意外に根は浅かったり根が張っていなかったりする。このイメージに近い。大きな樹は、外見は丈夫ではあるが、外部の強い力には脆いともいえる。

自分自身の経験からも、このままだとこころがヤバイなと自覚した瞬間というのは、全部自分でやらなければならないと強く信じ込んでいる時期だった。責任感が強いというのは、もろ刃の刃だ。いい面もあり、欠点となる面もある。とくにエリートは失敗経験が少ないから、見栄もある。とことん倒れるまで頑張ってしまう。それでも問題が解決しないときは、手がなくなって、こころはポッキリと折れ、いっきに全面降伏の状態になってしまう。バンザイ状態。

こころが悲鳴をあげ始めたら、見栄とか責任とか思わず、打開する他の方策はないのかと考える習慣が必要だと思う。人に相談するとか人に手伝ってもらう。その仕事の負荷はひとりで背負えるほどのものか、冷静になってみる、などの知恵が必要だと感じる。こころはいちど折れてしまうと、もとにはもどらない。しなやかさという特性を身につける必要があると感じるね。

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庭のバラ(6月)

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2011年2月26日 (土)

こころがパニック

先日、仕事上でちょっとした失敗をしてしまった。それを自分で自覚した瞬間に、頭のなかが真っ白になりかけた。こういう心理状態は、ほんとうにひさしぶりだった。

若い頃は、失敗が多かったから、そんなことが連続することもあり、だんだん頭の中が白くなっていった気がする。こういう日々は、ウツの助走状態みたいなもので、とても不快なものだ。

まわりを見れば、そんな小さなことなど気にもせず平気なヤツ(平気そうにしていたヤツ)もいた。パニックになりやすいというのは何か原因があるにちがいないと思う。性格や気性なんかも関係しているのだろうけれど、それだけではない気がする。

ひとつわかるのは、何かを守って生きている姿勢だ。プライドだったり自尊心だったりするが、これだけは失いたくないと頑なに守っている何かだ。いつも冷静な自分という自己イメージだったり、勇敢でたくましい自分のイメージだったりする。

ある意味それは生きる支えになっているものだから、それが破壊されてしまうことは、自己の存在を脅かす重大事件になる。それが打ち砕かれてしまえば、自分自身は腑抜けだ。守りたいと考えているものは、自分にとって益となる場合もあるし、害になっていることもある。

自分は何を大切に、守ろうとしているのかを検証しておくのは賢いと思う。そしてそれを脅かす事態とはどんな状況なのか、あるいは脅かしかねない人とはどんな人物なのか。そしてもうひとつ、そのものは容易に崩れてしまうような、もろいものなのか。あるいはどんなときにも、揺るがない確固としたものなのか。それは果たしてほんとうに必要なものなのか。

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長野県須坂動物園にて


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2011年2月24日 (木)

世はめぐる

最近のおもしろいTVドラマは、漫画の原作によるものが多いみたいだ。ほんらい脚本家などが作ってきたストーリや主人公のキャラクタが、漫画家が担うようになったとすれば、世の中もずいぶん変わったねと思わざるを得ない。TVドラマのネタ本の本流になってきたのだろうか。

むかしは(とむかし話に走るのはほどほどにしようと思いつつも)、漫画家の地位なんてとても低かったと思う。およそ正業というふうには見られていなかった。いま風にいえば、家に閉じこもった引きこもりの半病人みたいに思われていた。むかしの社会通念は、まじめに大きな企業で働くことこそが、正しい社会人の姿という暗黙の了解があったと思う。

かくいう自分も、ほんとうは芸術系に進んで、絵を描いてやっていきたかった。でも絵を描くなんて食えるわけねーだろ、というのが常識的な見方であり親の考え方だった。当時の自分は、ひよわにも親の反対やらなにやらで、あっさりとその気持ちに封印をして、食える道(つまり理系へ進学)を選んだわけだけれど、なんだかくすぶっている。

最近はクリエーターとかいって、芸術系の職業もずっと地位が上がった。最近の親たちの中には、芸術系に進ませて、将来その分野で食わせていかせようという人もいる。理系なんてあまり人気が無いようにも見える。

で、今思うのは、社会の通念なんて当てにならないなということだ。いろいろな社会の進歩がさまざまな技術により実現されてしまうと、価値観まで変化してしまう。自分の進路なんてそんなにちょくちょく変えられるはずもなく、たぶんこのごろの社会の変化の方がはるかに速い。とすると、若い頃に人気のあった業種に進むことができたとしても、30年もすればどんな風になっているかわかるもんか、という気がする。

その昔は(とまたむかしの話だけれど)、人気のあった会社は重厚長大業種だった。鉄鋼、造船、鉄道などの分野だったけれど、いまこの分野に若い人が殺到しているとは思われない。砂糖や小麦粉や塩を作っている会社は、(親から見れば)とってもいい会社だったわけだけれど、その面影は無いだろうね。

やりたいことをやらないと、本当のモチベーションは続かないなと思う。いやいや気の向かない職業につくとどこか後悔の念がのこる。自分を振り返ってもそんな思いに駆られるね。・・・だから、けっきょくいまは芸術系にかかわる仕事をしている自分がいる。


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    青空を切り裂くジェット機の機影

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2011年2月17日 (木)

欲しいもの

馬齢を重ねてくると、自然にわかってくることがある。何かをきっかけにわかるというのでなくて、ああやっぱりそうなんだな・・・としみじみわかる理解の仕方。禅に、頓悟と漸悟という言い方があるけれど、この後者のようなものだと思う。年をとれば、少しは賢くなって当たり前だという感じ。

そのひとつに、自分の人生の大半は、欲しいものを追いかけてきた時間だったということ。その欲しいものは、欲しいと思わされてきたものだったかもしれないけれど。
高度成長期というのは、それが原動力になっていて、欲しいものが次々と現われては、それを追い求める繰り返しだったかもしれない。いつも無いものを求めるという姿で、ウン十年も過ごしてくるとそれが当たり前になってしまう。

しかし、たいていのものを手に入れて、欲しいものが次第に少なくなってくると、同じ精神状態では立ち行かなくなってくる。手にしていないものを手にすることで、満足感を覚えるということは、成り立っていかない。何を求めたらいいのか、どうすればいいのか?という思いとともに、やはり物をたくさん持つということで人生を過ごしてきた事実が、ぼんやりと自覚されるのだ。

よく考えてみれば、これは精神的にはとっても貧しい。人生の充実感とは何なのか、自分の幸福とはどうなることであるのか、それを問わずに人生の大半を過ごしてきたということである。もっているさまざまなものを点検をすれば済む話ではない。

木々の葉の上に、しずくがのっていて、光を浴びてレンズのように輝く。枯れ葉の縁に、霜が下りて衣裳をまとっている。あるいは、暮れ行く山の稜線が黒いシルエットになり、生ぬるい風が頬をなでていく。こういう瞬間に、自分は確かにこの世界の中につつまれて生かされてきたんだと実感する。欲しかったものを持つことで満ち足りる世界とはまったく異なる、自分の現在、自分に与えられたものごとに気づくこと、どうもその辺に鍵があるように思う。

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2011年2月11日 (金)

1番になること

1番でなければいけませんか、2番じゃダメなんですか?
かつて流行語になった言葉だが、科学技術の世界では、1番でなかったら、あとは10番にも50番にもなってしまうという、開発競争の現実がある。

それはさておき、自分自身にこの問いを問いかけるのはとっても意味がある。ぼくたちは知らず知らずに、1番になることに大きな価値を置く教育を受けてきた。いわば点数に換算できることがらの重視だ。

これは教育する側にとっては、とても都合のいい価値観だった。画一的で均質な世界で、点数を競う。この教育の効果で、粒ぞろいの扱いやすい人間がたくさん育った。異質な人間や、協調性に欠ける人間、そして落ちこぼれる人間は、しだいに上に登るにつれて排除される。その結果、頂点には危なげの無い、諸点において問題を起こす可能性の無い人間が座る。

遺伝子に刷り込まれているんだね。1番になることの価値が。そして周囲は1番を賞賛する。スポットライトを浴びせかけて、注目するわけだ。そのことが逆に、弊害を生む。

いつも感じることだが、じゃ1番でなかった人たちは、どこでどうしているんだろう?それは一人を除けば全員といっていいわけだけれど、その全員は大なり小なり挫折感をもって、スポットライトを浴びることなく、どこかで生きている。自分は競争に勝てなかったという記憶とともに。

不思議に感じるのは、1番だけが高い優れた価値があって、2番以下になると、ガクンと格が落ちちゃうんだろうか?1番と2番とは、あるいは3番とは、そんなに違うものなんだろうか?ほとんどの競争の場において、どんぐりの背比べじゃないのだろうか?1番と2番、あるいは3番とは、いつも僅差じゃないのか?1番は、偶然とはいわないけれど、まあ運がよかっただけなんじゃないか?結果がすべてとかいうのだけれど、その扱いの不平等さにはいつも違和感を感じているわけだ。

ほぼ全員が挫折感をもつモノサシは、あやまりだと思う。現在の「幸福感のなさ」は、こんなところにも潜んでいると考えている。1番が1番になれたことでハッピーというならば、2番だってかなりハッピーだし、3番だってハッピーだ。いやたぶん落ちこぼれと言われている下位にいる人間だってハッピーのはず。だってモノサシは目安でしかないからね。


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2011年2月10日 (木)

足元を見る

本屋さんに行くと、ビジネス書と並んで成功哲学の関係の本がたくさん並んでいる。ついつい表題につられて、パラパラとめくってみる。次々と新しい本が出てくるのだ。これまでも何冊か買って読んだ。しかし、成功哲学「疲れ」ともいうべき微妙なものを感じてしまうので、いまは距離を置いている。

それはなんだろうと疑問に感じていたのだが、けっきょくのところ、本を読んだだけでは成功しないということだ。この本でアナタも幸せに・・・などと書いてあるものだけれど。一時の興奮、成功した自分を夢を一瞬見ることはあっても、それらは持続しないし、やがて怠惰な日常の自分に戻るという繰り返しだ。そのことに気づくと、これではまずいと、またぞろ成功哲学の本を探していたりする。

やがて何となく悟ってしまう。こんなことを繰り返しているうちに人生の時間はどんどん過ぎてしまい、もう何年、何十年と空費してきたのかもしれない。成功哲学にすら疲れてしまう自分というものを感じてしまう。

暗がりの中に立つ自分。目の前には大きなスクリーンがあって、そこには輝かしい成功や幸福が映し出されている。未来の自分の姿を重ね合わせて、しばし見とれる。暗い映画館にいるようなものだ。映画が終われば、あたりは明るくなって現実の姿を見つめざるを得ない。地味で瑣末な出来事の連続の日々が思い出され、訪れる幻滅感。

これが自分の陥っている本当の姿だとわからなければいけないと思う。自分の人生とは雑多とも思えるいろいろな問題やお金の心配のごった煮なのだ。現実をきちんと見つめる。足元を見る。何かが始まるとしたら、そのごった煮の中からでしかない。遠くにあるきれいなスクリーンのなかから変化が始まることはない。

本の中から見つけた言葉。

Be happy where you are. 
幸せは、他の場所にはない。いまいるところで幸せになりたまえ。(意訳)

There is no way to happiness. Happiness is the way.
幸せに導いてくれる道などない。道そのものが幸せなのだから。(意訳)

リチャード・カールソン『小さいことにくよくよするな!―しょせん、すべては小さなこと (サンマーク文庫) 』(Amazonリンク)p.82

別の言葉で、青い鳥症候群という言い方もあった。禅の方では、脚下照顧とか言う。みんな同じことを述べているんだね。


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2011年2月 7日 (月)

意味がないと思っても・・・

つい思ってしまう・・・
-そんなの意味が無いじゃないか
-それをやることに何の意味があるんだ
-こんなことをしていても、けっきょく無駄なんじゃないか

仕事でもスポーツでも、自分で意義を見出して始めたことがらでも、一所懸命打ち込んできていても、いつかこう思う瞬間がやってくる。やってもやっても、少しも変わらない。効果が見えない。これまでの努力は無駄なんじゃないか?果たして、こんなことしていていいのか。

つらい魔の時間だ。自分の信念を疑い始める瞬間。

でもこんなときは、いまいちど振り返ってみる。スタートラインを蹴って走り出したときのことを。熟慮して何晩も考えた始めたことだ。冷静になって考えてみれば、やはりいまだって同じ結論を導き出し、同じことを始めるだろう。そうならば、耐えて自分を信じるしかない。

いまは頭が変になっているだけだ。いま感じていることがらは、本来の自分から出たものではない。信じないようにしよう。魔がさしているだけだ。

こういう瞬間はかならずやってくる。だから対処法も考えておいた方がいい。自分を信じる力をパワーアップしておく。自分を信じる理由なんかなくたっていい。理屈や理論のさきの実践の世界に歩みを進めたら、理屈も理論も通用しない世界になる。力だけの世界なのだ。こういう強さを養うことも必要だ。


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伊那梅園にて(4月)

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2011年2月 3日 (木)

あたまの良さと愚かさと

頭のよさには2つあると思う。ひとつは知能テストや試験でいい点を取る能力みたいなもの。もうひとつは、知恵があるという頭の良さ。似ているようでまったく異なるあたまの能力だと思う。

両方持っているならば、それはよほど恵まれた星の元に生まれた人だね。めったにそんな素晴らしい人はいない。

みんな試験勉強をするのは、試験でいい点を取り、いい大学に入り、いい評価をもらっていい会社に入りたいから。だから、試験勉強は、一番目の頭のよさを目指しているともいえる。

自分の場合は、一番目の方の能力は、小さい頃とっても遅れていた。いつも人の後を歩いているような、自分が先頭を切って何かをするということがなかった。後で聞くところによると、おせっかいな近所のおばさんが、ドバ之介は小学校でなく養護学校に行ったほうがいいと母に勧めたそうだ。口が回らなかった(言葉が出ない)、理解力が劣っているというふうで普通の生活は無理だと思われていたらしい。

生き物の成長は、内部にある成長への意思みたいなものが発露して始まると思っている。ひとりひとり内部の状態は異なるのだと思う。だから起きていることがらは共通でも、人より遅く始まる場合だってある。集団生活をすると、遅れている子どもは劣っているとみなされがちだ。

そんなことを考えてみると、一律に行われる学校のテストかなにかで、点が悪かったといっても、その子がダメだということにはならない。ゆっくりゆっくりと育っていく子どももいるからね。自分の場合もそうだった。子どもの状況を見定めて、もっともよい栄養をよいタイミングで与えるのがいい教育だと思う。

ところで一番目のあたまの良さが一般に評価されるのは、それがわかりやすい部分だからだ。たぶん人間の脳が発展していくときに、最初に獲得する能力を試験ではテストしている。記憶力だったり違いを見つける能力だったり、さまざまな能力を発揮する過程で、いわば最初の原始的な能力を判定している。日本ではけっこうこの類の判定が大人になっても行われる。

では原始的な認識能力の発展のさきに、どのような能力が育っていくのかを問わなければいけないと思う。試験では計測できない能力はたくさんある。むしろこちらの方が数が多くて複雑で微妙だ。

たとえばその人の優しさを測れるだろうか。おおらかさを測ることができるだろうか。勇気とか決断力とかは?試験ではわかりえないものがじつはたくさんある。そしてこちらの方が人生では重要な要素なのだ。

ようやく結論めいたものに到達できそうだ。人生経験をつむほど、この知恵にかかわる能力は育つ傾向がある。学校を卒業して、テストなんか受けなくてすむ年代になって、ようやく育成が始まるような能力。

昔の試験のテストの点はよかったけれど、その人のその後の人生を見ると、愚かしいとしかいえないようなことをやっている人がいる。他人を見くびっていたり、尊大になっていたり、そんな人物をたくさん見てきた。その場その場でイイ顔をしてイイ格好していたって、長い時間の中ではそんな表面的なことは洗い流されて剥げ落ちてしまう。やがて、その人物がどんな程度なのかが露になってしまう。そのことを理解できるあたまの良さ、度量の大きさがあればよかったのに・・・と思うことがある。


Srsany0021

もくれん(8月)


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