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2011年3月

2011年3月29日 (火)

自分の世界観がどんどん強まる

先の記事で、疑い深い友人のことを書きました。それにつけて思うのは、疑い深い生き方をしている人には、世間の疑わしいことがらや、疑わしい人のことが目について仕方ないことになると思います。疑いの目でものごとを見れば、それにそった事象ばかり目につくというわけです。

反対に、皆にお世話になって感謝する気持ちで生きている人は、手を差し伸べてくれていることや、人の好意が痛いようにわかるので、それをますます感謝する気持ちに満ちてきます。

このように自分が人や世間をどんな風に見ているかによって、人や世間がどんな返事や反応をよこしてくれるかが変わることになります。いわば自分がまいているタネみたいなものですが、それが自分にはね返ってくるわけです。

したがって自分の世界観や人生観が、強化されていく傾向にあります。放っておくとそうなります。自然によい方向に向かうということはありません。ときどき自分が注目してみている方向を振り返ることが必要になります。目の中のチリの掃除です。

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朝の陣場形山(1445m) 農家の方はこの山の雲を見て天気予報を行っていたとか。


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2011年3月26日 (土)

大きな勘違いをしているのだろう

年配の友人に、生きる姿勢において猜疑心が強くて、疑うことの名人というような人がいます。ときどき彼の言動に驚かされるわけです。

以前、いいブログのサービスはないだろうかと相談を受け、最強ともいえるブログサービス(F**)を紹介しました。やがて会員になり、ブログの文章を書き始めていました。

ところが先日、そのブログのサービスに対する疑惑の思いをとつぜんメールに綴ってきました。そんなことはありませんよと返信をしましたが、それで納得いかなかったらしく、やがてブログ記事にもさんざん批判的なことを書いていました。

なんでも、記事を投稿しようとしたら、エラーも何も表示が出なくなり、止まってしまったそうです。それだけで(それだけのことで)、逆上してしまったようです。いわく、ネット中毒でもない自分がなぜこんな思いをしなければならないのか、なんとヘボなプログラムからできているのだろうというような内容でした。かれは昔技術系の仕事をしていて、シーケンス制御のプログラムの知識はあるようなのです。

これ以上の深入りをしないようにしていますが、自分の限られた知識ですべてを断罪して、省みることのないこの姿勢には、ちょっと閉口しているのが正直なところです。

ブログを始めるに際しても、自分の書いた文章が「あちら側」に取リあげられてしまうという疑念を抱いたようで、著作権やブログサービスの仕組みを理解してもらうのに何ヶ月も掛かっているのです。

そしていつもの通り、いろいろと教えてあげて納得したときは、フンとでも言うような態度で、お礼の言葉もないのです。たぶん人生において基本的なところで大きな勘違いをしているのだろうと思います。

自分に生じた不都合は周囲に責任があり、自分に何らかの足りないところがあったのではないかとは考えません。周りが手を差しのべているのに、その好意には気がつかない。そして不都合なことだけをいいつのる。これでは誰も相手にしなくなってしまうでしょう。

そもそも、ブログサービスも無料で利用させてもらっているのですが、どうもそのことは当たり前のように思っているようです。こういう友人の人生は幸せなのか、あるいは誰かと喜びを分かつというようなことが可能なのか、いろいろなことを考えさせられます。
(ちょっと今日は嘆きの文章でした)

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 暮れ行く空(伊那谷)

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2011年3月25日 (金)

いっきにゼロにすることはできない

不安を感じるとき、どこかで危険を察知しているわけです。はっきりとは意識できなくても、無意識の領域でこれは危ないとか過去に失敗しているという記憶が働いたりして。だから、表面上だけ、不安を無いものにしたくて、いろいろとあがいてもダメなんですよね。きっと原因があるので、生じた不安だけをゼロにするような都合のよい方法がないのです。

でもついつい紛らわしという方法をとってしまいます。不安を無視しようとする。不安を感じないようにがむしゃらに別のことをやるなどと。異性とか酒で忘れるなんて方法もあります。でもいつかは首をもたげてきます。それは原因があって、そこにポイントを絞っていないからです。

だからいっきにゼロにするということはできない。できるのは不安が減るように行動を起こすことだけです。つまり無意識に恐怖を感じていたり、嫌だなと思っていることがらに向き合って、その原因を無効にするように行動することです。逃げ回っていては、永遠に事態は変わらないばかりか、むしろ悪化していきます(これは保証します)。背を向けるとその影はますます巨大化して手が付けられなくなるという法則があります。

その原因に向き合うことは、とても嫌な経験です。でも向き合ってそれを正面から見つめたときに、たぶんいろいろと気づくことが出てきます。こんなものを恐れていたのかな、という気持ちかもしれないし、何だこんなことならこうすれば打開できるのかな、という気づきです。この進展によって行動が生まれます。そして少しづつですが原因が、無効化していくことになります。なにより不安がしだいに減って気にならないか、対抗できるところまで気持ちが成熟してくるのです。

Srsany0016

雪降りのあとには・・・


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小さな努力と自分を信じること

いくらやってみてもうまくいかない、あるいは少しも進歩がないと、ため息をつくということがあります。努力する気持ちを奮い立たせても、やはり同じところへ戻ってしまう。穴から這い出ようとしても、穴が深いために、結局ズルズルと穴の底へ滑り落ちてしまう感覚。その徒労感。

その繰り返しがふえればふえるほど、だんだん諦めの気持ちが強くなっていきます。どうせダメなんだとうずくまるようになります。自分自身も、若い頃はこんな焦りの状態にあったように思います。

そんな状態から脱するには何がポイントになるのか、今だから言えることが何点かあります。ひとつは小さな努力をけっしてやめないこと。「小さな」努力というところがミソです。一気に効果が出ることをねらって、たいていは「大きな」努力を自分に課してしまうことが多いのです。欲張るのです。しかし大きな努力は続かないことが多く、失敗したときのダメージも大きいのです。

そして「小さな」努力を続けても進歩は小さく、そんなことは仕方ない、意味がないのではないかと疑問がわきます。自分を疑う気持ちがふつふつと湧いてきます。これと、どう闘うかです。ほんとうに難しく、厄介な問題です。なぜなら諦めてしまう状態になる途中には、どこかで自分の重ねている努力への疑問が湧いてきて、けっきょくこの疑問の声に打ち負かされているからです。つまり自分の疑念に負けてしまうからです。

誘惑の声もあります。周囲から妥協の誘いもあります。内側からは疑念があれこれと湧いてきているので、乗りたくなってしまうのです。でも信じるしかありません。努力しようと決心したときの気持ちや、自分はできると思った自分の姿を信じるしかありません。ここに理由なんかないんです。ただ信じるしかない。諦めてしまうのは、たいてい信じる力の欠如が関係しています。疑問の方が強くてけっきょく勝ってしまうわけです。

小さな努力を重ねているうちに、少しですが変化が見えてきます。その経験がとても重要だと思います。やはり努力は間違っていなかった、疑問に負けなくてよかったというフィードバックを得ることができるようになります。そのことが努力をさらに続ける原動力になり、信じる気持ちの強化になります。それらがぐるぐるとよい循環に回っていく実感が湧いてきます。自分で自分をほめる気持ちを経験することが、とても大切だと感じますね。

Srp6150356
バラ(6月)



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2011年3月20日 (日)

心のクセをみつける

じぶんの心のクセを見つけておくと、人生を生きる上でけっこう役に立ちます。あるときに自分の心のクセに気がつきました。特定のパターンに入ったときに心が不安になるのです。

そのパターンとは、すごく単純な理由で、おなかの具合がよくないときにかならず不安になるのです。たぶんその裏には、「ひょっとしてトイレにいけなくなるのではないか?」という恐れが背景にあると思います。記憶のある幼稚園児の頃から毎日お腹をくだしてばかりいて、お腹をこわす前の腹痛がやってくるのが習慣でした。体に異常があるのではなく、毎日腹痛を起こすくらいの家庭環境のストレスがありました。

自分としてはそれを思い出したくもありません。しかし、お腹のぐあいがわるくなると、体が覚えていて無意識のうちに不安の気分の中に落ち込むというわけです。なので理由なく不安な気分になるときは、お腹のぐあいを考えるようになりました。この知恵はけっこう役に立ちました。しだいにお腹のぐあいを悪くするような習慣をやめるようになります。そして日々、こころが安定するというわけです。

また新しいことを始めるときは心が不安になります。これはどのような人でも共通して起こることと思います。人前で話をしなければならないとか、まだ未経験な責任の重い役目を務めなければならないとわかったときから、心は憂鬱になりその日が近づくと不安な落ち着かない時間が増えてきます。

こんな心境は誰でも襲われることです。でもそれに対して対処をするのと、できるだけ考えないように回避する気持ちで過ごすのでは、結果にはかなりの開きが出てきます。恐いものを見ないようにすればするほど、その恐さは想像の中でふくらんできて大きくなります。背を向けて首を穴かなんかに突っ込んでおびえている状態が最悪です。こうなると、自分で作り出してしまった巨大化した影を、やがて大変な思いで相手にしなければならなくなります。

自分で作り出したものに、自分がおびえるなんて、こう書けば笑い話のようですが、けっこうこれってあるんですよね。自分を恐がらせているものをしっかり見つめる習慣を持たなければいけないと思いますね。すると準備しなければいけないことや、やっておいた方がいいことが見えてきて、行動が生まれます。すると行動することにより、おびえていた影はどんどん小さくなっていくのです。

Srimg_6857
伊那谷の夕暮れ

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2011年3月12日 (土)

お知らせ


3月11日、東北地方太平洋沖大地震が発生し、多数の犠牲者が出ています。まだ詳細な情報が集まらないままですが報道などから、かなり甚大な被害となっています。被災された皆様へお見舞いもうしあげるとともに犠牲者の方々のご冥福をお祈りいたします。 あらゆる情報を集めることを企業のコアミッションにしているGoogleが、関連情報の統一と、消息情報の収集・提供を行っています。情報を必要とされる方は閲覧されてはいかがでしょうか。サイトは以下です。
Google Crisis Response 東北地方太平洋沖地震


2011年3月10日 (木)

こころを見つめる難しさ

不安に飲み込まれる話でも書きましたが、なんといっても難しいのは自分自身をきちんと客観的に見つめる余裕があるかどうか、という点です。

たとえば世の中のすべてが「赤く」見えてしかたない、そしてその理由がわからない、それに苦しめられている、ということがあります。「赤く」といったのはたとえで、その括弧の中に、たとえば、暗くとか、自分を責めているとか、不安とかに置き換えてもいいのです。

これはぜんぶ、同じ構造からきているからです。見えている相手の方に、その理由を求めていっても答えが無いということがあるのです。つまりは自分の眼に、赤いサングラスが掛けられている、あるいは不安を見つけるフィルターが入っているということです。

でも自分自身の方の偏りは、まったく気づきません。自分の眼を見ることはできません。見えるのはすべて外界しかありません。疑いだしたらキリが無いといいますが、疑いのこころでものごとを見ていくと、疑わしいことばかり収集できてしまいます。世の中はそういうものだと思ってしまいます。でも真実の姿としては、自分自身のなかに信じる力が欠如しているということでもあるのです。

どうも世の中が一色に見えていたり、口癖がいつも同じだったり、いろいろな話をしても最後の結論が同じところにいってしまったりするのは、自分の中のクセみたいなものを投射している可能性があります。

いや、ほんとうは世の中の人はすべてこんな偏りを持って生きているというのが真実でしょう。完全に中立の立場でものごとが見えているのはお釈迦さまくらいのものでしょう。知らず知らずのうちに自分の見方や考え方が完全だと信じていることが多いのです。しかしその信念をこわしてしまったほうが気楽に生きれます。

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 クレマチス


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2011年3月 8日 (火)

不安に飲みこまれて

不安が主人公になってしまうことを避けなければいけないと書きました。夜中にひとりで考えているときなど、そういう状態になりやすい。

たとえば職場で、良かれと思ってしたことがどうも曲解されて陰で非難されているみたいだ、そのときの職場の人の微妙な避けるような表情はなんだったんだろう・・・とか考え始めたりすることです。

不安のタネが、ひとりで想像しているうちにどんどん肥大していきます。やがて、自分のしたことが歓迎されていないみたいだという「想像のレベル」から、きっと自分を陰で非難しているに違いないと「確信のレベル」まで、拡大していきます。

さらに、きっとあの人が陰口を言っているはずだとか、あいつを攻撃しなければ自分が危ないとか、異常なレベルまでどんどんと広がってしまいます。ここまでくると日ごろの平静さを失い、パニックの直前という感じで、こころが追い詰められてしまいます。

自分で自分の視野をせばめて、その中でできることを探したりしてもがくのです。ほとんど狭い範囲の行動パターンしか思い浮かびません。あいつを叩きのめしてやることが、唯一の解決手段だというところまで、視野が狭まります。ほとんど一本道という状態。

ポイントは、自作自演で推論をかさね自分の行動の範囲をせばめていくところです。不安が主人公になって、自分の考え方や行動を支配している状態です。自分で作り出した情景なので、考えれば考えるほどその結論が正しいという確信を深めるだけです。並大抵の手段ではこのループの中から脱出する方法はありません。

ではどうしたらいいのか?
過熱した自分の頭で、自分の考えや行動をせばめているので、その熱くなった自分をクールダウンさせるしか方法がありません。ゆっくりお茶をのみ、湯船につかって、もう考えることをやめて朝を待つ、というのもけっこう賢い方法です。

不安に飲まれて、そこから離脱する経験をなんど繰り返すうちに、自分を見つめる眼ができてきて、いまは過熱しているぞと自覚できるスキルが身につきます。年寄りの知恵というやつなのですが。

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 冬を迎えた駒ヶ根市の田園

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2011年3月 6日 (日)

不安のコントロール

心の健康を考えるとき、いちばん重要なのは不安の問題への取り組みじゃないでしょうか。

馬齢を重ねた結論ですが、生きている限り不安はなくなりません。というのは未来は未確定だからです。だから仕方ないのです。

これから何が起きるかわからないということは、最悪のことも起きる可能性を否定できないということです。考え出せば(考えるとき、たいてい悪い方ばかり考えますから)、事態はどんどん悪くなる気がしてきます。するとどんどん不安になります。

なんの議題か知らされない会議に、かならず出席してくださいといわれただけで、人は不安になります。そこで何が起きるのか知らされていないからです。

健康診断で、要再検査の通知をもらうときも不安になります。再検査の結果、どんな悪い結末が待っているのだろうと考えてしまいます。

未来がすべて確定していて、何が起きるかが全部わかっている場合だけ、人生に不安はありません。事故にあうとかわかっていたら、襲ってくるのは不安ではなくて苦痛への恐怖でしょう。

また、なにも起きない人生ならば、退屈極まりないと感じるかもしれません。老齢になって社会から引退して何もしていない人生はこんなものでしょう。

生きている限り、不安の種は尽きないというのが結論です。しかし、だからといって不安にこころが支配されてしまう状態は、また別の問題です。不安を主人にしてはいけません。

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サボテンの花(アッチラセンセ)



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