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2011年12月

2011年12月10日 (土)

最悪の事態を見たくない

株投資の経験がある方なら、損切りということがいかに難しいことか痛感しているはずです。買った株価が下落して、自分の判断の失敗を突きつけられる。売れば損してしまう。ひょっとしてまた戻るかもしれないと、行動できない。そのうち損失がどんどん膨らむのです。

損切りを回避する心理は、奥が深いです。人間は嫌なものは見たくないため、目の前で起きている望ましくない事象を、なんとか屁理屈をこねて捻じ曲げようとします。苦い事実についていくのでなく、自分の感情を優先し、事実の方を否定するのです。

株の場合、損を認めたくないので、これは一時的な下げだとか、また戻るとかいろいろな言い訳を「自分に対して」行います。

今年起きてしまった原発事故でも、当事者間で、最悪の事態を想定すると言う基本が守られていなかった気がします。トラブルの際には、冷静な状況把握による事態の触れ幅を見極めるのが大切です。最悪どうなってしまうのかを考え、対策を採ることで適切な対処ができます。

どうも事故当時、政府から安全宣言ばかり唱えられていました。状況がいまだに正確につかめていないのにです。この気持ちは理解はできるものの、とても危険なものを含んでいます。つまり自分の気持ちの安寧さや、国民のパニック回避を優先し、事実を冷徹に見ていないからです。事態がしだいに悪化していく状況では、取り返しのつかないところまで行くでしょう。

ダチョウは、敵に襲われると首を地面の穴に突っ込み、体丸出しのままじっとしているそうですが、そんな姿とダブって見えるのです。

2011年12月 4日 (日)

それでも生きる

前記事で、生まれ育った家庭環境の影響は、消えることはないということを書きましたが、ちょっと暗いですね。それにもう少し、補足しないと正確ではないと感じました。

自己重要感がもてないからといって、生きていく価値がないかのように聞こえますが、そうではありません。強い自己主張の基盤を持たないということは、ある意味で自己を相対化できる強みをもっています。客観的で冷静という人格を持ちます。これは容易に獲得することができない特質です。苦しみを耐える人間は、大なり小なりこの傾向を持ちます。

それにもうひとつ重要なのは、自分の育った環境の不備を、いつまでも引きずって生きる必要性は全然ないということです。自分の場合、このことにハッキリ気づいたのは50代に入ったときでしたが、そんな遅くまで待つ必要はありません。

束縛は自分で開放すればいいだけのことです。たとえば親からの呪縛を自分から開放できたときが、そのときです。ほんとうは自分自身が握り締めて離さなかった、という面があります。自分が自分を苦しめているのですね。そして悲観するのは、感情にのまれてしまうからです。

2011年12月 2日 (金)

自己重要感

表題の言葉をときどき考えたりする人は、きっと自己の価値が分からない人なのだろうと、勝手に断定します。
反対に、自己の重要感を持っている普通の人は、そのことに意識すら向かないのです。そもそも考えることがないでしょう。

しかしそれを持っていない人は、人生でそれがいかに重要かわかっている。なぜかといえば、自分に欠落している痛みを通して知っているのです。

ブログにこのテーマで文章を書いている自分は、もちろん後者に属しています。
自分の場合、これまでの人生のなかで、自己重要感を持ち合わせていた周囲の友人や同年代の人たちとの、ぱっくり開いたギャップというものに直面していました。

それは普通の感情を持っているならば、そうするのが当然という場面で、その当然さが感じられない。なぜそう思うのか、そう感じるのかが分からない、というギャップです。自然と孤立を深めてしまいます。

自己重要感というのは、おそらく幼児期や子供時代を通して培われる基本的な感情だと考えています。それは損なわれてはならないその人の人格の底辺にあるもので、人格の一貫性を保つものです。

それが失われるとどうなるのか。分かりやすくいえば自分がしっかりしないフワフワした幽霊のような存在になります。自分はいてもいなくてもいい存在として意識されるので、強い自己主張の基本の部分がないという感じです。

おそらく愛情を持って育てられなかった子供達は、大なり小なり自己重要感の欠落という傾向を持つのだと推察しています。とくに虐待を受けて育った子供達は顕著でしょう。つまり自分は、たいした存在ではないのだという言葉やしぐさや家庭環境の中で成長するのです。

大人になれば、自然と普通の人間になるという考えは、自然な環境の中で育った場合の話です。歪んだ環境のなかで育てば、歪んだ精神しか育ちません。まずそのことが理解されなければいけない。歪みをちょっと直せば済むじゃないかと考えるのは浅はかです。その人間は歪んだレンズを通してしか世界を見ていないのです。

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