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2012年3月

2012年3月29日 (木)

どうせ、死んでしまうのだから

思春期のころ、人生の意味についてかなり深刻に考えていた時代がありました。「ありました」と、過去形で書くと、その問題が解決したかのように聞こえて少し不正確ですね。実際には、あるときある場所で、その疑問がすっきりと解決して、その後はすっかりと元気はつらつとなりました、というふうにはいっていないからです。

生きていくために働かなくてはいけないし、そんな疑問を胸に抱きながら実はある女性とも付き合っていて、人生の風景は着実に進行していったというのが本当のところ。その疑問は体のどこかに潜伏してしまって、何かの折にふっと湧いてくるという感じでした。

人生に意味はあるのかという問いと、常にセットになって現れてくる文言があります。それはどんなに努力してなにかを成し遂げたとしても、誰でも最後は死をもって終結し、なにも残らなくなるという文言です。さらに、どうせ死んでしまいすべて消えてしまうなら、生きる意味なんてあるのかという、問いですね。

でも現在は、その文言にとらわれていない自分がいます。その問題に対し答えをもってきっぱり解決したという終結ではないのです。そもそも、その問いの中に潜んでいる矛盾というかおかしなところに気づいてしまったからです。つまりは、その問いこそ意味がなかったと自覚するからです。

その文言は、2つの部分から成り立っています。
「いずれ死んでしまう」ので、「生きていることに意味はない」のではないか、と分解されます。この矛盾はとても単純です(でもなかなか気がつかなかった)。

この問いを発している間は生きています。今は死んでいません。いずれ死んでしまうとしても、今は生きている。いずれ死ぬという予測が、現在生きている価値を無にするかということですね。よく考えるとこの問いかけは、とてもおかしなことを表明しています。

未来に訪れる死が、現在を殺しているかのようなことを言っています。それはおかしいです。今は、とにかく生きている。その事実が目の前にあるだけです。将来がどんなになろうと現在にとって関係がありません。将来は将来に任せておけばいいです。生あることに感謝し生きればいいと思っています。そして生きる意味は、誰かが与えてくれることを期待して待ちの姿勢でいても、誰も何も与えてくれないのです。

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