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2012年4月

2012年4月29日 (日)

許すという行為

スーザン・フォワード著『毒になる親』をパラパラと読んでいます。少し以前の購入です。
特に注目して読んだのは、
・第二部 「毒になる親」から人生を取り戻す道、
   第9章「毒になる親」を許す必要はない
の部分です。

著者がカウンセラーの仕事を始めたころは、こう思っていたそうです。自分を傷つけた人間、特に親を許すことは、心の癒しにとって最も重要なことである。実際、親からひどい扱いを受けた患者に、そういう親を許すように説いたと。

しかしスーザンは、その後考えを変え、はっきりと確信したそうです。親を許す必要などないと。(実は、自分の気持ちとしては、この変更後の考えにとても馴染みます)

ではなぜ、スーザンはそのような世の宗教や道徳、哲学に反するような考えを抱くにいたったのか。
その理由は、親を許すという選択をしたのも関わらず患者は、みじめな気持ちや抑え込まれた怒りを消すことができずに、心身の状態はまったく好転していなかったということです。そしてその原因として自分の許し方が不足しているためだと自責の念に駆られる人もいたそうです。

彼女は許すという概念について綿密に研究したと言います。その中に2つの要素があることに気づきます。
(1)復讐をしないこと
(2)罪を免除する
という要素です。

はじめの復讐をしないことを誓うにしても、なぜ2番目の、罪を免除しなければならないのか、実はこの点についての正当性がないのだということに気づいたと彼女は言います。そして罪を免除することで、起きた事実の否定を行っているだけで、親を許したといっている人の多くは、本当の感情を心の奥にしまいこんでいるに過ぎないのだということです。

許すことの落とし穴があるということです。
光る文章だなと思ったのは、次の文章です。
「人間の感情は理屈に合わないことを無条件に納得するようにはできていない」

これは昔熱心に読んだ、森田正馬氏の著作の言葉と符合するものです。
人間の感情は否定することはできない。理性でそれを無いことにしたり無視したりすることはできないという事実です。たとえ、一時的に無いことにしたと思っていても、それは無くなったのではなく、その感情の上に別のものを重ねて見えなくしているだけで、いつか怒りのエネルギーは別の形態を持って立ち現れるという認識です。

抑圧された怒りの感情は、外へ出す必要があるというのがスーザンの考えです。その感情から目をそむけて無視することでは、癒しは完成しないということです。罪を許すことによりないものにするのではなくて、苦しみの原因となったことの責任を、本来負わなければならない人間(親)の両肩に返すことができて、開放が実現すると、彼女は書いています。

責を負うべきなのは誰なのか、その点を明確に意識することはとても大切です。自分の責任でないことを、自分のいたらなさであると転化する必要はありません。とくに虐待のようなひどい扱いを受けていた場合、その事実を理屈付け正当化するために、自分がダメな子供だからとか、親はしつけでやっているんだとか、捻じ曲がった考えを自分に納得させようとすることは多いはずです。繰り返しその考えを自分の中で反芻して、正当化しようとするかもしれない。でもまずは、責を負うべき人間はだれなのか、その点からもういちど再確認するべきです。

2012年4月20日 (金)

この年になるまで、気がつかなかった

少し前ですが、「あること」に初めて気がつきました。
自分自身の幼少期から成人するまでの長い期間における親子関係にかかわる事柄です。

すでに還暦を過ぎている自分が生涯で初めて気がつくということが異常でした。そのくらいこの問題は根が深いのですね。つまり児童虐待を受けた人間の心理に関することです。

そのことを書くべきかどうか迷いました。その事実は決して自分にとって得するものは何もない。できたら封印しておきたい気持ちにもなります。でも気がついた以上、それを表白する気持ちに駆られている自分がいます。また同じ境遇に晒されている人に、ひょっとして参考になることかもしれないと思います。

ひと言でいえば、自分には親から愛された体験や記憶がないという事実です。そしてその事実に先日まで気がつかなかった。世間ではそれが普通のこと、よくあることのように感じて生きてきたこと。

いぜんこのBLOG記事で、虐待を受けた子供はその虐待の事実を認識しないという内容を書きました。NHK番組で、虐待カウンセリングを受けている柳美里さんを追った番組に触れた記事です。http://dobanimuchi.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/tv-63e4.html

幼児期から続くネグレクトや虐待により、被害を受けている側にはネグレクトや虐待を意識できない精神状況が出来上がる。というよりそれが普通になり、世の中の基準にすらなるということです。またこの年齢になるまでそこに疑問を差し挟まないものだという驚きです。

受け続けていた待遇の異常さ、それから逃れたいという強烈な思いはつねに抱いていたものの、それを言語化したり表出することができないのですね。そういうものなんだという認識にとどまってしまう。

その理由は比較的単純な説明がつくと思います。逃れたいと思っているその状況は、自分自身の内面の一部に化しているために、客観的に切り離して他者として扱えないのです。幼児期から始まる、精神の骨格部分が形成される過程で、その異常な環境すら自分の栄養として取り込んでいくメカニズムがあると思います。

でもその異常な環境の取り込みによる影響は、成人してからも機会があるごとに顔を出していたのだと気づきます。ときに自分の行動の理由が分からなかったり、自分の感情をもてあますという事柄の根にあるものは、たぶんこれに関連しているのだろうと思います。これは今後解明しなければならないと感じます。

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