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2012年4月20日 (金)

この年になるまで、気がつかなかった

少し前ですが、「あること」に初めて気がつきました。
自分自身の幼少期から成人するまでの長い期間における親子関係にかかわる事柄です。

すでに還暦を過ぎている自分が生涯で初めて気がつくということが異常でした。そのくらいこの問題は根が深いのですね。つまり児童虐待を受けた人間の心理に関することです。

そのことを書くべきかどうか迷いました。その事実は決して自分にとって得するものは何もない。できたら封印しておきたい気持ちにもなります。でも気がついた以上、それを表白する気持ちに駆られている自分がいます。また同じ境遇に晒されている人に、ひょっとして参考になることかもしれないと思います。

ひと言でいえば、自分には親から愛された体験や記憶がないという事実です。そしてその事実に先日まで気がつかなかった。世間ではそれが普通のこと、よくあることのように感じて生きてきたこと。

いぜんこのBLOG記事で、虐待を受けた子供はその虐待の事実を認識しないという内容を書きました。NHK番組で、虐待カウンセリングを受けている柳美里さんを追った番組に触れた記事です。http://dobanimuchi.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/tv-63e4.html

幼児期から続くネグレクトや虐待により、被害を受けている側にはネグレクトや虐待を意識できない精神状況が出来上がる。というよりそれが普通になり、世の中の基準にすらなるということです。またこの年齢になるまでそこに疑問を差し挟まないものだという驚きです。

受け続けていた待遇の異常さ、それから逃れたいという強烈な思いはつねに抱いていたものの、それを言語化したり表出することができないのですね。そういうものなんだという認識にとどまってしまう。

その理由は比較的単純な説明がつくと思います。逃れたいと思っているその状況は、自分自身の内面の一部に化しているために、客観的に切り離して他者として扱えないのです。幼児期から始まる、精神の骨格部分が形成される過程で、その異常な環境すら自分の栄養として取り込んでいくメカニズムがあると思います。

でもその異常な環境の取り込みによる影響は、成人してからも機会があるごとに顔を出していたのだと気づきます。ときに自分の行動の理由が分からなかったり、自分の感情をもてあますという事柄の根にあるものは、たぶんこれに関連しているのだろうと思います。これは今後解明しなければならないと感じます。

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