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2012年5月

2012年5月24日 (木)

頭でっかちになると・・・

寝ようとすればするほど寝られなくなる、ということがありますね。
これはけっこう、自分で自分を騙しています。
寝ようという意思が働いているうちは、
その緊張が原因で寝られないのです。
緊張が続かなくなるほど疲れると、
意思の方もゆるんで寝付けるのです。

たとえば、言語学の方(?)で引き合いに出される話ですが、
「ピンクの象のことを考えてはいけない」
という文章。
考えてはいけないと命令している文章なのに、
頭の中には、ピンク色した象のイメージが思い浮かべられます。
この文章は矛盾しているのですが、
えてして矛盾していることを自分に課してしまいます。

また、人前でスピーチをしなければいけない場面で、
直前の緊張が高まるときに、
「リラックスしないといけない」
とリラックスを装う。
これって、けっしてリラックスできません。
「何か」をしなければいけないと頑張ることは、
緊張をあらたに作り出すことだからです。
リラックスという緊張のない状態を、
緊張を持って実現できるはずがないのです。
このおまじないの言葉も矛盾しています。

有名な話に、クレタ島の理容師があります。
この理容師は、自分でヒゲをそらない人のヒゲをそるという理容師です。
さてこの理容師は、自分のヒゲをそるべきか、という話。
また、「私はうそつきです」という文章。
うそつきだったら、私はうそつきではないことになります。

言葉の矛盾に気がつかず、
それを実現しようとして長年苦しむこともあります。
誰の前でも、緊張せずに堂々とした態度でいなければならない
などは、かなりインチキくさいです。
あるいは男たるもの、××でなければならない・・・
もう頭でっかちもいいところなのですが、
その言葉に縛られています。
気をつけないといけません。

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2012年5月16日 (水)

ポジティブになろうとするほど、苦しくなる

書店の店頭にいくと、まさにポジティブ思考の本がずらりと並んでいます。
オンパレードといってもいい状況ですが、実は自分は苦々しく思っています。
あ~あ、またかぁ・・・
ポジティブ思考には落とし穴があるからです。

ポジティブ思考にとりつかれてしまったら、いずれ疲れるばかりになるし、
やがてネガティブ思考に陥り、ますます落ち込むことになることは間違いありません。

頭で考えたポジティブという状態を、自分の心身に持っていくのに無理があるからです。
疲れたときは元気は出ないし、それが自然です。
落ち込むような失敗をしたときは、ポジティブになるはずがありません。
つらい反省を通じて、なにがよくなかったかを見極めることこそ、
やらなければならないことです。
その作業はポジティブでもネガティブでもない。
やるべきことをやる、それだけです。
そこにポジティブなんか持って来る必要がない。

思い通りに自分の体や心を作り出せると錯覚するところに恐ろしさがあります。
感情が自由にならないのと同じように、
前向きになる気持ちが、魔法のように生み出せるはずはないのです。

こういうとネガティブな意見のように聞こえてしまいますが、
心の真実、感情の真実を無視して、都合のよい方向へ持っていけると考える
無茶苦茶さが、やがてさらに大きな苦しみを生み出すということを言っているのです。

むかしの小説家に倉田百三という方がいました。
観念論的な考え方をもち、頭の理想的な想念で自分の生活を完全に
支配しようと努力し、感情すら自分の思うとおりの感じ方でなければならないと
考えるに至りました。
最後には極度のノイローゼに陥り、森田正馬博士のところで神経症の治療を
受けました。
もうこの問題は決着がついているのです。

心は自然に流れ、それは誰も予想もつかないし、ましてや制御なんてできません。
それを無理やりねじ伏せるような生活を続けると、
その歪んだエネルギーは、やがて頭をもたげます。
むしろその歪みを解消することで、自然なポジティブな状態になるのです。

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2012年5月11日 (金)

感情の法則

神経症療法の一種ですが、若いころ盛んに森田療法を勉強したことがあります。
森田療法の基本にある考え方は、次の文章で簡潔に表現されています。

「あるがままでよい、
あるがままよりほかに仕方がない、
あるがままでなければならない」
(Wikiで調べてもこの言葉が紹介されています)

この「あるがまま」の言葉は、決してわかりやすいものではありませんが、
ある意味で秘伝の奥義を示している気がします。
たぶんに東洋思想、とくに禅の考え方が色濃く取り入れられている表現なので、
最初はわかりにくいのです。

この「あるがまま」は、別の観点から言い換えると、
・感情のうつろいを、理性や理屈ではコントロールできない。
・つまるところ、流れる感情のままに生きていくしかない。
・それ以外の生き方は、嘘っぱちだ。
ということになるかと思います。

それから博士の著書に、感情の法則というものがまとめられていましたが、
なにせ、読んだのは20代後半。自分はもう還暦を越えているので、
30年は経過しました。その感情の法則の文章は、うろ覚えなんですね。

そこで述べられていた趣旨に沿って、感情の法則を再現させてみたいと思いました。
ドバ之介流の感情の法則です。

1.感情はエネルギーである。
  エネルギー不滅の法則のとおり、
  一度発生した感情(エネルギー)は消えることは無い。
2.感情は、理性や理屈には従わない。頭脳で考えたものではないからだ。
  したがって本来、理屈で、それが無いことにはできない。
3.しかし無理やり押さえつけ、抑圧したり、無視することはできる。
  このときには、無意識領域に沈んでいく。
  押し殺し無視した感情は、地層のように、無意識領域に蓄積されている。
  そして本人が自覚しない瞬間に、ひょんな形で(不思議な形で)立ち現れる。
4.感情のエネルギーが消滅するのは、それを表出した時である。
  思い出し味わいつくすことで、徐々に消える。
  爆発的に吐露すると、瞬時に消える。
  (思い切って言って、あ~あ、すっきりした!ってやつです)

森田博士が、あるがままでいくしかないと言われたのは、
自然な感情を押し殺したり、無いものにしたりすると、
やがて何年も、何十年も経って、いろいろなところからその無理が(タタリが)噴出する
というようなことを言われています。たとえばノイローゼの原因となったり、
ヒステリー症状となったり、情緒の不安定になったりです。

感情は、理屈では制御できないし、理想を掲げてこうあるべきだと、
捻じ曲げることはできないのですね。

たしかうろ覚えですが、森田博士の言葉にこんなものがあった気がします。
「かくあるべし、そは偽りなり!」
自然に湧いてくる感情にむかって、こうあるべきだ、こう感じなければならない、
なんて考えるのは、うそのコンコンチキだ!ニセ善人になるな!
と言う意味です。

だから感情とはうまく付き合っていくしかない。
それに感情は偉大なパワーを持っている。
それはカタルシスの作用です。
思いきり泣いたあとで感じるすっきりした気持ち。
感情を外へ出してしまうことで、ドロドロしたものを浄化してくれるのです。

2012年5月 8日 (火)

あるBLOGを読みながら・・・

コメントを寄せていただいた方のBLOGを拝見しました。
幼い頃から虐待を受けたそうで、いまだに心の奥底に母親への怒りが潜んでいるという内容の記事でした。そしてそのことを思い起こすことにより、気分的に不安定な状態が続いているとの記述がありました。

自分の場合は、どのようにして現在の心境に至っているんだろうと、振り返ってみました。
思い出せないくらい幼い頃、もの心ついた頃には、親との心理的遮断を試みていた記憶があります。5歳児くらいだったろうと思いますが、両親が外出したときに心理的にホッとして、押入れに仕舞ってあった布団に顔をこすり付け、布団の匂いを嗅ぎながら両親のいない環境の平安さを喜んだ記憶があります。

たぶん本能的に、自分にとって不利な状況を遮断し、親とはなるべく関わらないという没干渉状態を保ちながら育ったと思います。そこには親への憎しみや怒りというものはそれほど強くなく、とにかく距離を作ること、他人として接することに専念している自分がいました。
それは今日まで貫かれている基本ポリシーです。

でも、うかつにも、それが如何に異常なことであり、普通でないことかをきちんと自覚するに至ったのはごく最近といっていい。むろん成人してからは、そのひどさに怒りの感情は湧いてはきますが、それで自分の精神がどうしようもなくなることはありません。せいぜい不愉快になったり、ときに家内の前で親への怒りを吐露するくらいで、家内になだめられてお仕舞いです。

さてBLOGを拝見して感じたことを少し書きます。
親の所業にたいして怒りを覚えてしまう自分を、いけない自分として切り捨ててしまう、あるいは処罰するのは、ちょっとちがうと感じます。怒りを覚えるのは当然であり、そんな怒る自分をやさしく許すべきです。怒る自分を、そのまま受け入れた方がいいのだと感じます。まして自分の方の落ち度を探す必要はないでしょう。

もっと自然な感情のままでいるのが望まれるところで、怒る自分を正誤判定をしたり、そんな自分を抑えるというような複雑なことをしてはいけないと感じます。複雑にすればするほど問題はこんがらかって解決が難しくなります。

もうひとつ感じたことを書きます。
これはかなり重要なことがらです。よくこの罠に引っかかるので、他の件においても要注意なのです。それは、
《親を含めて、他人の考えや生き方を変えようとはしない》
という基本的方針です。

人の考えや生き方を変えようと頑張っている自分は何なのか、その点です。
実は、この感情の根底にあるのは人を支配下におきたいという独占欲であり、従わない人間への怒りです。本人は良かれと思っていろいろと努力することがありますが、けっきょく自分が考える正義による裁きになっています。

こんな裁きに、人は敏感に反発するだけの結果になります。
本人が変わろうとしない限り、あるいは本人がボロボロになって自己を放棄したとき(いわゆる洗脳されたとき)しか人は変わりません。これは逆の立場を考えればわかります。他人が自分を変えようとしている状況が、如何に不愉快な経験であるかを想像すると理解できると思います。

スーザン・フォワードの『毒になる親』のエピローグにある文章には2つの内容が含まれています。
最初のメッセージは、親はついに愛情を理解できない人間だった(いや現在もそうである)と見つめること。
二つ目は、被った被害に対しては怒りを覚えるばかりかもしれないが、それは仕方ないことで、その責は親にあるんだと裁定すること。自分を苛む方向に自分の力を使わないこと。

それらができたとき、自分の心の中に距離と余裕が生まれるということです。




2012年5月 3日 (木)

冷静に事実を知ること

前記事で書いた『毒になる親』という著書の続きです。
この本のエピローグに、毒になる親への対処法としてとても簡潔な文章が書いてあります。簡潔ではありますが、要を得ておりいい文章だと感じました。

もしあなたが「毒になる親」に育てられた人間だったら、あなたは本当の愛情とはどういうことなのかがようやく理解できた時、自分の親は愛情のない、または愛情を理解することのできない人間だったのだということを思い知ることになるだろう。このことこそ、あなたが受け入れなければならない、人生でもっとも悲しい事実なのである。 けれども、はっきりと親の限界を知り、彼らのおかげでこうむり苦しんだ被害について明確に確認することができた時、あなたは自分の人生において本当の愛情であなたを愛してくれる人たちのためにドアを開けることになるだろう。

スーザン・フォワード著『毒になる親』P309 

人を変えようとするほど無駄な努力はないという言葉があります。人は人の考えで生きています。それがどれほど間違っており危ないと思われても、それをこちらからの意思で直すことはできません。それが可能であるかのように思って費やされる努力や時間は、すべて無駄になります。また人間関係を壊します。

それがたとえ親であっても同様です。子供だから親を変えることができるという思い込みは、甘えから発したものであり間違いになります。人が変わるのは、心底本人がこれではだめだと思い知り、変わる意思を持ったときしかありません。

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