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2012年6月

2012年6月28日 (木)

言葉というものにあやつられる

辞書で、「幸福」とは何かを調べてみると、恵まれた状態にあって、
不幸を感じたり、心配することのないこと、と出ています。
それでは、「不幸」とは何なのか、ついでに辞書を引いてみます。
すると、幸福でないこと、と書いてあります。

反対概念なので、幸福がわかれば(決まれば)、
不幸もわかる(決まる)ということです。
さらに幸福な状態がないとき、不幸ということになります。
で、ひとは幸福だけを願っています。

でも何だかヘンなのです。
むかしから疑問に感じていました。
世の中に、幸福だけが存在して、不幸がなかったら、
はたしてどうなるのだろうという疑問です。
そのとき、はたして幸福に感じるのだろうかという疑いですね。

たとえ話にこんなものがあります。

ある家に、幸福というものすごい美人がやってきて
泊まらせてほしいと願い出ます。
家の人は、それは大喜びで、どうぞどうぞと招き入れます。
ところが美人の後ろに、もうひとり醜い女性がいて、
一緒に家の中へ入ろうとするのです。
びっくりした家人は、醜い女性に向かって、
あなたを招き入れるつもりはない、と告げます。
幸福という美人は言います。
これは自分の妹の不幸というものです。
別々に別れて行動することは出来ません。
そう言うと、二人とも姿が消えてしまいました。

たしか仏教の経典にある喩え話です。

幸福ばかりになったら、幸福を感じることはないのではと思います。
幸福は当たり前で、日常に自然にあふれているので、
ありがたみがないのです。
それは幸福という概念自体が崩れてしまいます。
ただ日常がある、そんな感じではないでしょうか。

思うどおりににならない、
やることなすことうまくいかないことばかり、
人生は汗水たらして働くばかり、
苦労の連続。
こんな状態が当たり前の世界があったとしたら、
この中で暮らす人には不幸というものを感じないかもしれません。
周りを見渡しても、みな苦労しているのです。

日本と比べて、GDPがものすごい低いのに、
国民は笑顔にあふれ幸福度は世界一という国もありました。
幸福と不幸の比較をする対象がないのです。

自分の不幸を嘆くのは、
かつて不幸でなかった状態を知っているとか、
あるいは幸福な人と自分の境遇を比較したときです。
かつての金持ちが貧乏になってしまったとか、
となりの家が富豪だとかいう比較する作業が入ったときです。

その嘆く気持ちの根底にあるのは、
差を見つけ、
その差を嘆く、
というステップです。

だから、その差がそもそもたいしたものではなかったとか、
その差は、言葉のあやで、本当の差ではなかったと気づくこと、
そんなプログラムがあるといいですね。

ある日、自分が大金持ちに変身していて、
これまでのような、お金の苦労はないのだけれど、
盗難やら、倒産、相続、争いなどの苦労が絶えない
という境遇に放り込まれるのです。
かつて自分が感じていた差というのもが、
何だったのかを振り返るようなプログラムです。
どこかの映画にはありそうですが。



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2012年6月26日 (火)

がんばるとか、努力するとか言ってきたけど・・・

藤原和博さんの『坂の上の坂』という本を読みました。
この本は、司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』を下敷きにしている本です。
司馬さんの本は、明治維新から日露戦争までの日本人の頑張りを描いています。
日本という国家の青春時代を描いた小説です。

藤沢さんの本は、ちょっとひねりが入っています。
つまり、頑張って頑張って、坂を上っていって、
ようやく坂の上から望むと、ロマンの雲が空にかかっているのではなく、
その先にはまだ上り坂が続いていたということを表しています。

『坂の上の坂』のなかで、藤原さんは、日本人の遺伝子には頑張る教が
刷り込まれているという趣旨のことを書かれています。
西洋文化を取り込み、追いつき、追い越すためには
国民あげての努力とか頑張りとかが必要でした。

自分の子供時代を振り返ってみても、
努力すること、頑張ることは、疑いようのない「正しい価値観」でした。
たぶん現代においても、あらわには意識されないにせよ、
その価値観が、日本人の本能に刷り込まれていると思っています。

昔からあるジョークに、こんなものがあります。
浜辺で一日のんびりとくつろいでいる男がいました。
そこへビジネスマンがやってきて、一所懸命に働くことを勧めます。
浜辺の男は、聞き返します、何のために苦労して働くのか、と。
ビジネスマンは、社会で成功を収め、高い地位を得て、
高い報酬が約束された生活を得るためだと答えます。
浜辺の男はふたたび聞きます、
その生活はなんのために手にするのか?
するとビジネスマンは、成功の先にある生活のイメージを考えたことが
なかったことに気がつきます。
そうだね、のんびり一日浜辺で海でも眺めていようかな・・・

頑張る教は、日本の社会が高度成長するにも、
とても威力を発揮しました。でもその先の幸福については、
あまり問うたことはないのです。
何のために頑張るのか?
まあ、努力していれば、きっといいことがあるさ・・・
そんな程度でした。

働くことが自分の目指す目標にリンクして努力している人は、
それで幸福なのです。
でも、なんとなく頑張るとか、とりあえず努力するというのは、
行き先も目標もはっきりしないまま、全力疾走するようなもので、
さあ、自分はどこへ行くのでしょうかと人に聞いているようなもの。

先日ニュースを賑わせた、O真理教の逃亡信徒たちの姿と
どこかダブって見えてしまいます。

日本では、努力とか頑張るとかの言葉は、
ほぼ無批判に受け取られています。
美しい言葉ですらあります。
学校の先生方も、二言目には口にするのではないかと思います。
でもそれは本当に正しいのか。

頑張る教の教義に照らすと、頑張れない自分、努力できない自分は
許されないことになってしまいます。
努力できない自分を責めたり、頑張れない自分を責めるという
自然ではないメンタリティを形成します。
でもこれは自然ではないですね。あるがままではない。
疲れるときもあるし、のんびりしたいときもある。
これらをまず認めた上で歩まなければいけない。

多くの人を苦しめてきた言葉でもあると感じるのです。


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2012年6月24日 (日)

寒殺および熱殺

中国の洞山禅師が修行僧と問答した話が伝わっています。
とても示唆に富んでいます。
(以下、意訳です)

修行僧「季節ごとにやってくる暑さ、寒さから、
どうしたら逃れることができるでしょうか?」

(もちろん季節について問いかけているのではなく、
人生の中で出会う苦しみや悩みなど、嫌なことから、
どうしたら抜け出せるのか、どうしたら悟れるのかを
聞いているのです。
禅では、一見関係のない題材で話をするのが一般的です。)

洞山禅師「暑さ、寒さのないところへ、なぜお前は行かないのか」
修行僧「それはどこにあるのですか?」
洞山禅師「寒いときは寒さになりきり(寒殺)、暑いときは暑さになりきる(熱殺)」

なんだか、はぐらかされたような答えですが、
とても深いものを感じます。

寒さになりきると寒くない、
または暑さになりきると暑くない
という矛盾したことを言っているからです。

その反対の表現をするならば、
寒さから逃げようとするならばますます寒くなり、
暑さから逃げようとすればますます暑くなるぞ、
と言っています。

こころの痛みを癒すときに、どうしたらいいのか。
悲しみをどうしたら癒せるのか。
こういう疑問はいつも湧いてきます。

人生の問題にたいして、逃げようという姿勢をとるとき
いちばん辛くなるというのは、皮肉なことですが本当です。

自分の受けたいじめや虐待の経験、そして内面で生じた
もろもろの葛藤の経験から言えるのは、
その傷や悲しみから逃げては解決しないということです。

ところが傷や悲しみを、人はまず避けようとします。
逃げようとします。その背景には、つらい状況を
自分で認めることができないということがあります。

その結果、湧いてくることが自然である悲しみの感情を
封印してしまう。あってはならないこととして眼をそむけます。
悲しみは、タイムカプセルに詰め込まれたように、
そのときのまま解決することなく沈殿していきます。
その悲しみの感情は、悲しみとして味わうことなく
蓋をしてしまったということになります。

味わうことをされなかった感情は、負のエネルギーとして、
いろいろな場面で苦しみを生み出す元として活動します。
自分へのいわれのない否定的な感情が湧いてきたり、
おのれの価値のなさを感じたりします。

感情は十分に味わうことで役目を終えて、消えていくのです。

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2012年6月21日 (木)

力を抜くということ

眠れない夜に、寝ようとすればするほどますます眼がさえて
寝つけなくなることを経験します。
これは寝ようとする努力が、眠りの状態とは正反対の
緊張状態をもたらすからです。

力を入れ緊張することで、リラックス状態には到達できません。
とても矛盾しています。
眠れないときは焦りも加わってますます脳は活発に働きます。
眠れない夜は、そのジレンマにはまります。
わかっていてもこのジレンマからは抜け出せません。

練習ではうまくできるのに、本番では本番だというよけいな緊張感が
加わり、うまくいかないということもあります。
つまりはよけいな力の存在で、思うようにならない状態です。

このよけいな力とはいったい何ものだろう?と、
いちど振り返るのも、結構人生では有効だったりします。
この邪魔する、よけいなものとは何なのでしょう?

いろいろと失敗をやってきて、人生で苦い積み重ねをしてきた
ドバの介には、このよけいなものがわかります。
それは、
「ものごとを思うがままにしたい」、
「思うがままになる!」
というまちがった自分の欲望や認識です。

人は寝ようと意思を固めるだけで、すぐ寝れると勘違いしてます。
本番でうまくやらなければいけないし、それは願えば出来ると
勝手に思っている自分がいます。

自分の方の都合で、それを思えば、そのとおりものごとはうまく運ぶと
思い違いをしているということです。願っただけで、欲しただけで、
ものごとがうまくいくわけではないのです。
うまく運ぶためには、必要な条件を準備し、考えて練習しなければ
いけないのです。

心臓だって自分の意思で動かしているわけではありません。
寝ている間もちゃんと呼吸して窒息死することはありません。
病気にならず、今日も元気でいられるのも、よく考えれば
自分の努力や思いで健康なわけではないのです。
病気になるときは、そのつもりがなくてもなります。

でも自分の思いに飲み込まれていると、この状態に気がつきません。
自分を生存させている条件があるのに、それは無視しています。
よけいな力とは、この勝手な思い込みをしている自分だということです。



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2012年6月19日 (火)

外すという高級テクニック

こころが、あることに貼りついたように固着して動けなくなったとき、
とても苦しい思いをしているものです。

でも、好きでやっていることだと、自分から進んでやっているので、
あまりこころの執着を意識しません。
その対象が異性の場合でも、こころの働きは同じで、それを意識しません。

しかし、好きなスポーツがこのごろ上達しないとか、悩みだすと
とたんにこころの執着という悪い面が出てきます。
なぜ自分はこんな苦しい思いまでして、これをやろうとしているのだろう、
と自問したりします。こんな時期は必ずやってきます。
(男女間でも同じだと思います・・・)

「こころの執着度」を自分で意識することは、こころの健康にとって
とても重要だと思います。どのくらい対象にたいして自分は執着しているか
それをつねに思い起こすようにするのです。
執着度を検知するセンサーを持つといいのです。

かなりの執着度だと、わかったときは、その執着している自分を
否定するのでなく、執着から「離れる」テクニックを使うのです。

執着自体を否定して、なきものにするのはとても大変でエネルギーを要する
作業です。そんなことまでする必要はないのです。
わけあってそのものに執着し、達成しようと思っているのですから。

自分の執着を、フッと離れる感覚です。
ガリガリ、ゴリゴリ頑張っている自分とは、別の自分を出してきて、
まあまあずいぶんと頑張っちゃっているなと、他人のように見るのです。
頑張っている自分に肩透かし!という感じですかね。
これは会得するととても役に立つテクニックです。


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2012年6月15日 (金)

苦しみの原因

ちょっと大それた題ですが、苦しみを生んでしまう姿勢、
というふうに考えていただければと思います。

苦しみの原因を、ひと言でいえば、
《苦しみは執着から生まれてくる》
ということに尽きると考えています。

こころは、何ものかに執着して動けなくなるとき
苦しみを感じるということです。

これは私が思いついたものではなくて、
おおむかしに、仏陀(お釈迦様)が説いた言葉です。
法句経という仏陀の短い言葉をあつめたお経の
最初の部分にも出てきます。

こんな言葉ですが、若いころ最初に読んだとき、
とても衝撃を受けました。
あまりにもシンプルで、本質を突いていて、
もうこれ以上の説教は要らないと思いました。

我をののしった、

我を笑った、

我を打った、

と思う人には、

恨みはしずまらない。

恨みは恨みによって

しずまるものではない。

恨みを忘れて、

恨みはしずまるのである。

   法句経 第1品 三

いろんな翻訳がありますが、京都大原 三千院から出ている
ポケットに入るようなちいさな本をよく読みました。

自分がののしられたり、笑われたり、打たれたりすると
それが心の執着になります。
そのことで心が支配されて、身動きが取れなくなります。
それが苦しみを生み出す。

強迫観念症と呼ばれる神経症があります。
なにかある特定の行動をせずにはいられない。

出かけるときに、家に鍵をかけたか、どうも不確かで
もどって鍵がかかっていることを確認します。
ふたたび出かけようとするのですが、
不確実な気持ちが不愉快にもこころに残っている。
それで何度も鍵を確認する行動をとってしまう。
やがて生活ができなくなるのです。

火の始末をしたかどうかが気になって、
何度も家に戻るという患者さんもいます。
また手についたばい菌が感染して病気になるのではないかと、
手の皮膚が擦り切れるくらい洗い続ける例もあります。

こころがあることに執着してしまって離れず、
流動性がなくなってしまうのですね。
粘着質というか潔癖な性格の人が罹りやすいといわれています。

厳密に考えると、確実なことがらはこの世の中にはありません。
いい加減ともいえるし、アバウトなのですが、
とらわれが深まるとこのような事態が起きてきます。
そして本人はとても苦しむのです。

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2012年6月 7日 (木)

こころは本来、カラッポ

へんな題だと思いますが、これは本当のことです。
心には実体はありません。

楽しい心とか、悲しい心とか、いろいろな心があって、
それらが入れ替わり立ち代り自分の中を占有していく
というイメージがあります。

でも、こころは外界や自分の内部のことがらを写している
ディスプレーみたいなもので、無色透明なもの。
ディスプレーに、楽しいディスプレーとか、悲しいディスプレーなど、
色がついているわけではないのと同様です。

ただ、こだわりというものがあって、これが曲者なのです。
これは心というより、思考のクセのようなものです。
このこだわりがあるために、こころがロックされて
そのこだわりから離れられない。

不安に打ちのめされそうになっているとき、
不安へのこだわりがあります。

安心できるはずがないではないか!
こんな大変なことになっているのに!
それでこころが固定されロックされます。
そして苦しむ。

こころという言葉は、ころころとよく変転するからだという話があります。
本来、無色透明、カラッポな状態がこころの本質で、
よく転がっている状態が心の元気な状態です。

子供のようなという形容があります。
おさなごころという言葉もあります。
これが健康で、本来のこころの姿だろうと思います。

慧可という達磨禅師のいちばん弟子が、
不安なこころの実体を掴もうと追及して追求して、
ついには疲れ果てて、実体がつかめませんでしたと
涙ながらに告白したとき(本当に泣いたかどうかはわかりませんが)、
達磨さんは、それでよいと言ったと伝えられています。

いやいや、正確に言えば、達磨さんの言葉は、
「おまえのこころを安んじ終わった」
と言ったと伝えられています。

こころの転換を誘っているのですね。
こころの実体はどう探しても無い、ということは不安も無い、
つまり、もともと安心だったのだ、と言うことです。

問題はこだわりです。
こだわりが尽きるまで、こころは苦しむのです。




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