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2012年7月

2012年7月31日 (火)

尾木ママ、いじめ問題を語る

7月28日(土)読売新聞記事で、尾木ママこと尾木直樹氏が、
いじめ問題について語っています。
いじめのあった学校の教師の対応について、いかに教師の判断能力が
なかったかを物語る内容です。

『教師の最も重要な責務は、生徒の安全、安心に配慮することなのに、
『けんか』と軽くとらえ、いじめを見過ごすことになったのだから、
罪は重い。』

『自分がやられてイヤなら、遊びじゃないんだ、
これはいじめどころか犯罪なんだと。そのくらいの迫力で、
学校は加害者の子どもにも親にも迫らなければならないんですよ』

言われていることには、全面的に賛成と感じました。
しかし一方で、現実のいじめの実態や、実際の学校の対応とのギャップの広さに、
嘆息してしまいます。現実はその正反対じゃないか・・・?

先生は、いじめの現場で、見て見ぬふりをしたばかりか、笑っていたという
アンケート結果もあります。
いじめの訴えに対して、いじめている側の生徒がいる前で、
本人に「大丈夫か?」と聞いただけだった、という話も伝わっています。

先生側の姿勢には、いじめが表ざたになってほしくない、
そんな思いがありありで、単に感性が鈍くて、いじめに気が付かなかったとか、
知らなかったということではなかったのだ、と思わざるを得ません。
それは校長の記者会見でも、まったく同様の姿勢が見られました。
むろん教育委員会も同様です。

一言でいうなら、いじめに目を背けている学校の姿勢が、
強固に一貫しているということです。
そんな中でいじめ抜かれている生徒さんは、どこにも駆け込むところがありません。
そんな実際の姿が浮かんできます。

尾木氏のいわれている、安全、安心に配慮する姿勢が必要ということは
わかりますが、現実はその正反対です。

どうしてこういうことになっているのか?
先生は、どうしていじめに背を向けているのでしょうか?
知識だけ詰め込めばよしとする姿勢、それ以外の部分では
問題が起きてほしくない、起きても起きなかったことにしたい、
どうしてこのようになっているのでしょう。

ひょっとして、いじめる側の生徒集団を恐れている、
あるいは彼らにおもねているのかもしれません。
学級が自分のコントロール下にないことを
よく自覚しているのかもしれません。

モンスターペアレントの問題が後ろに控えているかもしれません。
実際、加害側の生徒の親が、今回の問題への警察事情聴取にたいして、
強く抵抗しているという報道もありました。
こうなると単に学校内部の問題というより、家庭教育や家庭環境へと
問題が広がってきます。

いずれにせよ先生側の姿勢が、全国の中学校や高校の教育現場においても
共通だとすれば、いじめ問題は全国レベルで発生するだろうし、
(おそらく発生しているのだし)、まったく解決できないことになります。

学校には建前の美しい言葉がたくさん流れているのに、
いじめられた側の生徒さんは、最終的に自殺という解決手段しか
選べないとは、ほんとうに情けのない仕組みです。
大人の責任もものすごく重いといわざるをえません。

表ざたになってもなお、いまだに学校側は自己保身に徹し、
真相の解明に抵抗する姿勢を見せています。
もう自浄能力を失ってしまったように見えます。

教育は国家の基本という理念で、明治以来発展してきた日本ですが、
教育が崩壊すれば、国も衰退するしかないでしょう。
なぜこのような事態になってしまったのでしょうか。
その根本にある問題は何なのでしょうか。



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2012年7月24日 (火)

強者と弱者

いじめ事件とか虐待による事故のニュースを聞くたび、
加害者側の心理に思いを馳せることが多くなりました。

強い立場にいる人間たちが、いじめ被害を受ける生徒とか、
虐待の対象になっている幼児に向き合うときの心理です。

事件がおおやけになってから追求され、
躾けようと思ったとか、遊びをしているだけだという口実を、
加害者側が口にします。

被害者が死をもって終了するこの一連の仕打ちが、
しつけや遊びの「度を越えている」のは明らかです。

ではなぜ、そういう言葉しか浮かばないのか、
それが不思議に思うのです。

度を越える仕打ちをしながら、その意識がないということが、
異常だと感じるわけです。

むかしドストエフスキーの『罪と罰』を愛読しました。
金貸しの老婆を、主人公のラスコーリニコフが斧で殴打して
殺してしまいます。
そのときの描写が、妙に生々しくて今でも覚えているのです。

殺人場面の最初の一撃は、主人公のためらいがあるのでしょうか、
力なく振り下ろしたという描写がありました。

確信を持って振り下ろすというより、振り上げた斧を重力に任せて
落とすような感じではと思います。

しかし、2回目以降の殴打では、はっきりとした殺意というのか
確信を持って力を込めて斧を振り下ろします。

1回目と2回目の殴打の間に、加害者のこころに何か変化がおきたことが
表現されていたと記憶しています。

それは何なのか?

行動を実行に移してしまうことで、
ますます行動を正当化する方向へこころが動いていく、
そういう変化があるのではと思います。

斧を一度振り下ろしてしまうことで、何かが吹っ切れてしまう。
おそらくためらいとか、引き返せないことを今実行している意識などでしょう。
さらにいえば、恐怖の感情や弱い自分への怒りなども
混じっていると推察します。

こうして一度始めてしまった暴力やいじめは、歯止めがなくなります。
それをすることで、強者の立場になっている
自分への共感のようなものも生まれているように思います。

この最初の一撃のときに、踏みとどまらせる防止策がなければならない
と思います。2回目をやらせてはいけないということです。
それは教育かもしれませんし、環境というものかもしれません。
そこに焦点をあわせるべきだと感じているわけです。



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2012年7月19日 (木)

こころに潜む闇

虐待事件で、加害者の親の述壊を聞くことがあります。
かならずしも虐待をしたいと思っているわけではないのに、
なにかのきっかけで虐待の行為におよんでしまう。
そして感情がおさまると、してしまった結果を後悔する。
これをくり返す・・・そんな話です。

そのきっかけは、自分になつかないとか、
自分と似ているとかそんなことが多い。

もちろん、しつけの一環としてやった
という弁解を聞くこともあります。

でもここに深い闇を感じざるを得ない。
それは自分の中に、
まるで逆の方向のこころが潜んでいると思われるからです。
自分は子供に愛情を持っているし可愛がることもある、
しかし何かをきっかけに、子供が憎しみの対象になったり
攻撃の対象になってしまう。

こころの中に、投射という働きがあります。
自分の心にある、自分の嫌いな部分、見たくない部分は、
ふだん蓋されて見えていないし意識されていないのです。

ところが他人の中に、自分と同質の嫌いな部分、見たくない部分を
見た瞬間、とても感情が動くのです。
そういう部分に対しては、異常なくらい敏感に反応するという現象です。

嫌いなものというのは、
たいてい自分のなかに同じものがある場合が多い。
それを相手に投射して反応してしまうわけです。

虐待の現場というと語弊がありますが、
虐待のその瞬間に加害者の心に何が起きているのか。
ボクはこの投射という作用が働いているのではないかと思っています。

その親は幼い頃、さらにその親から虐待を受けて、怯え苦しんでいた。
その記憶はこころの奥底に深くしまわれています。
それはいわば見たくない嫌いな自分の姿です。
自分では意識しないことが多いと思います。

しかしわが子供を虐待するとき、怯えて苦しむ子供の姿に、
かつての自分の姿を見てしまう。
それは見たくないし、思い出したくない姿なのです。
しかし子供の姿を契機にして、押さえ込んでいた感情のエネルギーが
飛び出してきて、弾けてしまう。
それはあってはならないこと、見てはならないこととして
暴力を振るうことで否定しようとする。
感情の暴走をコントロールできずに、
思いもよらないひどいことをしてしまう・・・
こういう経緯をたどるのではないかと考えています。

以上は、ボクの仮説です。
かならずしも、世間で認められたものではありません。
しかし、残念ながら加害者の心理を、
えぐりだすような解明は、これまであまりされていない気がします。
こころの闇に切り込まないと解決はしない、
それが解決への第一歩だという思いは強いです。

親はなぜわが子を虐待してしまうのか?
その答えがなければいけません。







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2012年7月16日 (月)

いじめ事件と虐待事件

連日のニュースで、5歳児虐待死の事件と、中学2年生いじめ自殺の事件が、
報道されています。

当初の関係者の話とはことなり、調査が進むにつれて、そこで行われていた
暴行などの実態がわかってきました。

いじめ事件の発覚で開かれた、学校関係者や教育委員会の弁明会見を聞くと、
何もしない、何も語らないの姿勢で一貫していて、要するに
被害者の立場に立つ大人が、一人もいなかった実態が見えてきました。

ゆいいつ希望というか救いとも感じられたのは、大津市市長の
越直美氏の涙の会見でした。

いつから日本の大人たちは無責任で、自分の保身ばかり考える
姿勢になってしまったのでしょう?そんな姿は見たくありません。
恥ずかしいことです。

今日のニュースでは、当該中学の校長という人物が会見に出てきて、
弁明を語っていましたが、「俺には責任ないんだよ!」と顔に書いてありました。

このひとが、教育現場の最後の責任者なのだろうか、
別人の替え玉が会見に出ているのかと考えてしまうほど、
しぐさや言葉が教育者らしくなかった。

しかし、いちばん気になっているのは、加害者の心理です。
被害者が連日の暴行を受け、最後には死を選ぶほど
追い込まれていったわけですが、
焦点を当てたいのは、そんな被害者の衰弱をみて、
さらに暴行を過激化させていった心理です。

しかも一人で行った傷害事件ではなく、複数の同級生が
加担していたのが事実で、担任の教師もたぶん加担していたと
みて間違いないと思われます。

そんな心理状態とは何なのでしょうか。
被害者から見れば、悪魔のようなこころとしか見えなかったと
思いますが、なぜ悪魔のこころに変身してしまったのか。
そこが問われなければいけないと強く感じます。

被害者が弱れば弱るほど、さらに苛め抜いていくという心理は
何なのか。それは5歳児虐待死事件でも同様です。

おそらく今後、加害者の更正とかいう見地で、更正のための教育が
なされるのでしょうけれど、なぜ悪魔のようなこころに
複数の人間が支配されてしまうのか、
その点に切り込まない限り、再発は防止できません。

自分の想像では、感情のフラッシュ(暴走)がおきているということ。
ここにポイントがあると見ています。

人間は感情の暴走に支配されると、普段では考えられないほど
ひどいことをします。
とくに抑圧され続け、心の奥底に押し込められた感情ほど、
出口を見つけるとそこへ一気に噴き出してきます。
もう自分ではコントロールできません。

おそらく加害者は、被害者を痛めつけることで、
抑圧された感情のエネルギーの開放感を味わっていたと思われます。
せいせいするというヤツです。
そしてまた被害者を見ると、感情が暴走しはじめる。
感情は開放されたがっているものだからです。

そこにはこころの闇があり、強い感情のエネルギー蓄積がおきていて、
外へ出てくることを抑圧していたと想像されます。

感情は無には出来ません。
感情は、芸術などで他の形態に転化するか、
放出しなければくずぶり続けるのです。
加害者のこころの闇に切り込んでほしいと願います。





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2012年7月 6日 (金)

人ごと

いつも新聞の人生相談コーナーに目を通します。
いろいろな相談ごとが持ち込まれ、それに人生の先達が答える形式です。

どんな深刻な相談ごとも、新聞を手にしたこちら側からみれば人ごとなのです。
本人がどんなに真剣に悩んでいても、客観的に眺めている姿勢でいられます。

でもこれって、よく考えると不思議なところもあります。
当事者だから悩んでいるけれど、傍観者の立場の読者は、痛痒も感じない。
この差は、何なのだろうかと。
また当事者と傍観者の立場の決定的なちがいは、何なのだろうか・・・

寄せられる悩みは、万人共通で、読者にとっても大いなる問題のはず。
でもフフンとせせら笑っているとは言わないけれど、
こちら側の読者の気軽さはどこから来るのだろうか・・・

碁の言葉に、岡目八目というのがあります。
対戦している両棋士の横で見ている人の方が、
八目くらい上手いということを言っています。
当事者になると、とたんに勝ちたい感情や負けたくない思いで、
一気に下手になることを言っています。

当事者になると何が変わってしまうのか?
僕の結論です。
それを重大で深刻な問題なのだと、
自分で決めてしまったから。
あっけないですが。

人生相談でも同じです。
持ち込まれた悩みが、この世でいちばん緊急で大事で深刻なんだと、
お尻に火がついているような大事件なんだと、
「自分が決めている」部分があります。

人生相談を読んでいる読者は、
そんなに深刻な大事件かなぁ・・・と
冷静に見ている。

相談を寄せる人は、大問題じゃないですか!
解決しなければ生きていけない!
と叫びたいのだろうけれど、
その問題の取っ掛かりのところにポイントがあるように思うのです。

そんな大きな問題かな?
生きていけなくなるほど深刻な問題かな?
という問いかけは無駄ではないと思います。
自分で深刻で大問題にしてしまってはいないだろうか、
そういう部分はないだろうかと、
問題と自分の間に距離を置くのです。

人ごとというと、無責任の代表格みたいです。
でも、自分の悩みに「人ごと」になる。
「人ごと」でいいじゃないかと考えてみる。
けっこう、役に立つと思います。




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2012年7月 4日 (水)

わかった、ということ

若い頃からの疑問をお話します。
禅の修業なんかを修めて、いちおうの悟りを開いたお坊さんが、
晩年になって家庭内の問題に苦悶していたとか、病を苦にしていたとか、
そんな話を若い頃、聞いたことがあります。

そんな苦しみに包まれてしまうのなら、
修行して得たものとは何なのだろうという疑問でした。
悟りを開いたら、すべての問題はすっきり解決。
悩みとは無縁の生活で、もう笑って生きるだけだというイメージがあったのです。

でもそうじゃないらしいということなので、修行で変わったこととは
何なのだろうという疑問でした。

でもいまなら、なんとなく判ります。
苦を苦として受け取っている姿勢が貫かれているということです。

生活していくうえで自分を苦しめる問題が、
目の前に現れたとき、ふつう自分たちはどうするのか、
それを考えるとわかります。

自分たちは、苦から逃げようとしてあがきます。
あるいは目をそらしてしまい、苦があることを否定しようとします。
けっして苦をまともに受け取ろうとは思わないのです。
生物の本能がなせる業かもしれません。

逃れられる問題なら、逃げればいいのです。
それで問題は終わり。
でも、遭遇するのは逃れられない問題の方がほとんどです。
それなのに、逃れられないのに、逃れようとする。

じつは本当に苦しいのは、逃れられないことから逃げることかもしれません。
逃げたつもりでも、逃げられていない。
SFとかサスペンス映画などで、よくあるじゃないですか。
エイリアンから逃れて、ようやく地球に帰還する宇宙船に乗り、
ホッとしたときに、強酸のヨダレが天井からしたたってくる、なんていうシーンが。

逃げても逃げても、危機は去らない。
それどころか、危機の影にかえって怯えてしまう。

苦しいのは、その状況にいる自分を認めていないということです。
自分が、自分の姿を否定し、拒否している。
つまり自分が分裂してしまっていて、
ただ苦しいというレベルから、それに輪をかけて自分を苦しくしている、
ということだろうと思うのです。

自分が作り出した苦に、とらわれているということですね。
たぶん、悟るとはその構造が見えてしまった状態だと思います。
いま遭遇している問題は苦しんでいかなければならないのだと、
腹をすえて、そこにどっしりと腰を下ろしている、
そんな感じではないでしょうか。
そうすると苦は去ってはいないのに、苦しみが変わるのです。





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