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2012年9月

2012年9月25日 (火)

苦しくなる発端 その2

こころの苦しみを生み出すパターンのお話をしましたが、
その続編です。

こんな記事を書いている筆者は、さぞかし心の安定した悟りきった人だろう
と思われるかもしれません。そんなことはなく、ごくごく平凡な悩み多き人間です。

ただ昔ほど、こころの苦痛とか悩みを「こじらせなくなった」のは確かです。
こじらせてしまうと、悩まなくてよいレベルのことまで悩むし、
苦しまなくてよいことまで背負って苦しんだりします。

この「こじらせる」状態とは何か、どういう道をたどって「こじらせて」しまうのかについて、
ちょっとした技を知っているかどうかが、分かれ道になると考えています。

ちょっと複雑な話になりますが、こころの状態は、言葉で規定されています。
こころの中で鳴り響いている言葉というものがあります。
この言葉が、けっこう厄介な存在です。

自分はぜったいこの学校(あるいは試験)に受からなくてはいけない、とか
このライバルに負けない、負ける自分は許せない、とかです。
自分のプライドから、こんな姿は絶対人には見せられない、
というのもあります。

こういう言葉は、自分の努力目標を指し示す言葉でもあります。
自分はこうならなければならないという、頑張りのための文言です。
目標達成という点では、きわめて有効なツールではあります。
でも一方では、自分の考えや感じ方、生き方を縛り付けているとも言えます。
呪縛しているといってもいいかもしれません。

このような文言を長いこと自分に課しているうちに、
ほんとうに自分を縛る呪縛になっていきます。
その文言は、「絶対に」とか、「必ず」とか頭に付くことが多いのです。

すると、絶対の世界になってしまうため、そこから外れることが出来なくなります。
外れた自分は価値がありません。
絶対達成しなければならないことが、結果的に達成出来なかった自分は、
どのような自分になるのでしょうか。
たぶん無価値な自分です。

でもおかしいと思いませんか?
その呪文を決めたのは確かに自分です。
しかし、いまそれを実現できなかった現実の自分もいます。
どうして現実の自分に対して、呪文の方が勝っているのでしょうか。
過去の呪文の方がなぜ正しいのでしょうか?

試験に落ちた現実が目の前にあり、
落ちた自分は無価値だと思い勝ちなのですが、
冷静に考えれば、まず自分がいて、
その次に試験に落ちた事実がある、ということです。
自分の価値には何の瑕も付いていないのではないでしょうか。

呪文はツールでしかありません。
役目が終わったらポイでいいはずです。
本当のものはここにいる自分であり、これからどうしようかという選択です。
こころはその現実の自分に寄り添わなくてはいけません。
こころがその文言の方に呪縛される必要はないのです。

絶対にという言葉が、思わず口をついて出てくるときは、
要注意ですね。



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2012年9月18日 (火)

こころが苦しくなる発端がある

つらい思いをするとき、こころが苦しくなるときには、
あるパターン(法則のようなもの)があるのじゃないかと以前から感じていました。
それがどういうものか、漠然としていてはっきり掴みかねていたところでした。

でもこのごろ、それが絞り込まれてきた気がします。
やはり、こころの呪縛の問題、
つまり自分で自らを縛って苦しんでいるのではないかと思うのです。

たとえで言うとわかりやすいのではないかと思います。
たとえば嫌いで仕方ない人と一緒に仕事をしなければならない状況を想定してみます。
嫌いで嫌いで、声を聞くだけで不愉快になるということがあります。
姿すら見たくない。でも仕事なのでそれに耐えなければならないという状況です。

ここで不思議なのは、死ぬほど嫌いな相手のことを、
となりで仕事している人は、 なんとも思っていない、ということがあります。
では自分と、となりの人とはなにが違うのかということになります。

なにが違うのでしょう?
その違いで、こころが苦しくなったり、
なんともなかったりするのです。

簡単に言ってしまうと、その違いは、
「あの人の声を聞きたくもない!」
という思いです。

あっけないほどですが、この違いは大きいのです。
それはなぜか?

声も聞きたくもないと思い込むということは、
その思いで、自分のこころを律したことになります。
「嫌いな相手の声を聞いている自分」という姿を、
自分にあってはならない姿として拒否したことになります。
ここに苦しみのスタートポイントがあります。

嫌いな相手の声を聞かなければ、仕事が出来ないとすれば、
仕事の最中は苦痛の連続になります。
その声を聞いている自分を拒否しているのに、
現実の自分は聞いているからです。
これが苦しみの原点だと思うわけです。

逆に言うと、
「あの人の声を聞きたくもない!」
と思わずに、
「仕事上で協力するのは仕方ないことだ」
と思ったとします。
このときの苦しみは、全く別のものになるのではないかと思います。
もちろん好きではない相手なので、愉快なことはありません。
でも、敏感にその人の声を聞くまいと頑張っている苦しみとは
かなり違うものであるのは確かです。

習慣から無意識に自分に与えてしまった縛りの存在、
案外こんな簡単なことが自分を苦しめているのではないか、
そんな気もするのです。


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2012年9月11日 (火)

自分の姿も、やっぱり見えない

自分の顔は見えないと書きましたが、自分の姿も見えないのだと思います。
そのことをスポーツの例でお話したいと思います。

自分は中年になってからスキーを覚えました。
それ以来、上達を夢見ては、暇さえあれば滑っているようなマニアです。

スキーの上達に関して、いろいろ突っ込んでいくと、
これって心理学そのものだなと思うことがあります。

ある本に出ていた話です。
人がスキーを履いて滑っているのを見て、
その人の滑りの技術が、自分と同じくらいだなと思うときは、
その人の技術は、自分よりかなり上だといいます。
なんだかヨタヨタして、ヘタッピな滑りだなと感じる人と
自分の技術が同じくらいだということが多いと。

なぜこんなことになってしまうかと言うと、
人の滑りは、外から客観的に(冷ややかに)見ているのに対して、
自分の滑りの程度は、自分の滑走感覚で想像するしかないからです。
むろん、かなりの自惚れが混じっているわけです・・・

スキーのレッスンに、ビデオレッスンというのがあります。
生徒さんの滑りをビデオ撮影して、
クセとか直すべきところを、生徒さん自身の目で見て、
納得してもらうという意味があると思います。

ビデオレッスンで、生徒さんが怒り出すことがあると
聞いたことがあります。
自分の滑りを見せつけられて、
「自分はこんな下手ではない! これはほかの人だ!」
と叫ぶのだそうです。

スキーは自惚れのスポーツだといわれていますので、
自分の中では、デモ並みの滑りがイメージされています。
オレの滑りを見ろっていうくらいです。
それが、情けない現実の姿を見せられ、
かなりのショックであるのはまちがいありません。

スポーツの世界ですら、自分の本当の姿、真実を見つめることが
なかなかできません。
まして形のないこころの世界では、どれだけ思い込みが激しくて、
自己中心で、我田引水の考えが支配していることか・・・
想像を絶するのではないでしょうか。

自分のスキーの滑りがだいたいどの程度のものか、
欠点はどこにあり、何をしなければならないかが
わかっている人は、そうとうな上級者だそうです。
いわば客観的な姿と、自己イメージが一致している人です。
(それが食いちがう間は、悩みは尽きないわけです・・・)


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2012年9月 8日 (土)

自分の顔は、見えない

馬齢を重ねてくると、いやでも当たり前のことがわかってきます。
とくに変わってきたと思うのは、『己(おのれ)自身を知れ』という部分。

自分が思っている自分自身と、他人から見える自分とは、
相当ちがっているものだと、自然に納得するのです。

自分自身のイメージってありますよね。
自分はおとなしいとか、ひとにやり込められている、
あるいは、自分は明るく活動的だとか・・・
若い人が、『わたしって、そういうことが出来ない人じゃないですかぁ・・・』
とか言っているのを聞くと、ちょっと微笑んでしまいます。

自分の感じている自己イメージと、他人が感じるものは、
相当にちがう・・・これが実感です。

ジョハリの窓という心理分析の手法をご存知でしょうか。
参考まで、たとえばこちら・・・

自分が知らない自分自身を、他人は見ているという可能性があることを
指摘しています。

本当の自分(というものがあるのかどうか実は疑問ですが)については、
よくわからないということになります。

そういうことに気づくと、自分の性格について悩むということが、
相当にピント外れではないかと思えてくるのです。

だってそうじゃありませんか。
的外れの自己像をかってに作り、それに関して悩むなんて。
他人はちがう風に見ていたとしたら、
それって茶番劇というか一人相撲をやっているだけになります。

ときどき、わが奥さんと話すのですが、
奥さんの発する言葉の端々から、
自分自身を、気が弱く、か弱い性格の女性だと、
思っているらしいことがわかることがあります。
でもそれは相当にちがっています!(キッパリ)。
自己像というものは当てになりません。

一人で自分の性格について悩んでいるのなら、
いちど親しい友人や、家族に自分の自己像のことを話してみるといいのです。
これはけっして無駄にはなりません。
思いもよらない側面を発見するかもしれませんね。


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2012年9月 2日 (日)

目をそむけるほど・・・

怖いこと、不安なことから目をそむけるほど、
その怖さや不安は増大していきます。
怖いことを、嫌なことと置き換えても同じですね。
嫌なことを、嫌なまま放置して目をそむけていると、
その嫌さ加減は、ますます増大することになります。

これはこころの法則みたいなものです。

気の進まない課題や、期限付きの嫌な仕事など、
放置しておくと、ぎりぎりになって手に負えなくなるほど
苦しむことになります。
子供の頃、夏休みの宿題を放置、
8月末を前にして泣きながらやった記憶があります。

その仕事や課題の大変さに加えて、
目をそらしたことによる、「苦痛の増大」に直面するのです。

なぜなのでしょうか?
背を向けた仕事の大変さや嫌さ加減は、
際限なく大きくなるように感じます。
このこころの作用は何故なんでしょう?

それは意識するにせよしないにせよ、
人間はすべて「意思の力」を使って生きているからじゃないかと
考えています。

遊びに行こうとするときは、その前段階で、
「遊ぶぞ」という決心が固められています。
会社に行く朝には、「自分は(嫌だけれど)会社に行く」と
決心が介在しています。
どんな行動でも、その行動の前には「決心」があって、
すでにこころの決着がついている気がするのです。

ところでこころの決着がつかないまま、行動することは
あるでしょうか。本心ではそれをしたくないし、する気もない、
でも意に染まないまま行動している状態です。
確かにこういう状態はあります。
それはとっても辛いし、泣きたくなるような心理状態です。

嫌なことから目をそらしているのは、
こういう前段階じゃないかと考えるわけです。
嫌なこと、怖いことなどに向かう決心がつかない矛盾した状態。
やらなければいけないことは頭ではわかっているのに、
こころが向いていない。

意思が固まっていないこと、
それから背を向けてしまっていること、
こういう後ろめたいこころの状態が、
「加算的に」苦痛を増やしているように思います。

そむいている意思と、やらなければいけない行動が、
ぷっつりと乖離した状態になるだろうということ。
うすうすそのことに気づいているからかもしれません。


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