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2012年9月18日 (火)

こころが苦しくなる発端がある

つらい思いをするとき、こころが苦しくなるときには、
あるパターン(法則のようなもの)があるのじゃないかと以前から感じていました。
それがどういうものか、漠然としていてはっきり掴みかねていたところでした。

でもこのごろ、それが絞り込まれてきた気がします。
やはり、こころの呪縛の問題、
つまり自分で自らを縛って苦しんでいるのではないかと思うのです。

たとえで言うとわかりやすいのではないかと思います。
たとえば嫌いで仕方ない人と一緒に仕事をしなければならない状況を想定してみます。
嫌いで嫌いで、声を聞くだけで不愉快になるということがあります。
姿すら見たくない。でも仕事なのでそれに耐えなければならないという状況です。

ここで不思議なのは、死ぬほど嫌いな相手のことを、
となりで仕事している人は、 なんとも思っていない、ということがあります。
では自分と、となりの人とはなにが違うのかということになります。

なにが違うのでしょう?
その違いで、こころが苦しくなったり、
なんともなかったりするのです。

簡単に言ってしまうと、その違いは、
「あの人の声を聞きたくもない!」
という思いです。

あっけないほどですが、この違いは大きいのです。
それはなぜか?

声も聞きたくもないと思い込むということは、
その思いで、自分のこころを律したことになります。
「嫌いな相手の声を聞いている自分」という姿を、
自分にあってはならない姿として拒否したことになります。
ここに苦しみのスタートポイントがあります。

嫌いな相手の声を聞かなければ、仕事が出来ないとすれば、
仕事の最中は苦痛の連続になります。
その声を聞いている自分を拒否しているのに、
現実の自分は聞いているからです。
これが苦しみの原点だと思うわけです。

逆に言うと、
「あの人の声を聞きたくもない!」
と思わずに、
「仕事上で協力するのは仕方ないことだ」
と思ったとします。
このときの苦しみは、全く別のものになるのではないかと思います。
もちろん好きではない相手なので、愉快なことはありません。
でも、敏感にその人の声を聞くまいと頑張っている苦しみとは
かなり違うものであるのは確かです。

習慣から無意識に自分に与えてしまった縛りの存在、
案外こんな簡単なことが自分を苦しめているのではないか、
そんな気もするのです。


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