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2012年11月

2012年11月30日 (金)

母を亡くして

11月22日午前4時に母を亡くしました。
母は2010年1月に脳梗塞で倒れ、そのままいちども意識が回復しないまま、
旅立ちました。享年86歳でした。

栄養チューブをつなぎ延命措置をとってきたわけですが、
3年にもなろうとする現在、回復の見込みはまったく無しということで、
担当医師とも相談し、延命措置はとらないと決めました。

いや実は、そのきっかけがありました。
不思議なことですが、まったく動けないはずなのに、
何かを飲み込むような(嚥下)動作が出てきて、
栄養チューブが外れてしまうということがありました。
外れた後は、水分を筆で唇に与えるという措置でした。
しかし水分だけでは生命は維持できず、
衰弱による自然死ということになります。

通夜祭と葬儀祭をとおして棺が開けられていて、
母の顔は、死化粧を施されて、ほっそりと痩せていましたが、
美しいものでした。若い頃の顔に戻った気がしました。
若い頃からさんざん父親のやりたい放題に苦労をさせられて、
いまやっと安らぎを得たということを感じました。

葬儀の方は、父親が胃がんの手術を終えたばかりのため、
喪主という役目を自分が負うことになりました。
葬儀などをとおして、自分の感情は動かないだろうと思っていました。
しかし想像と実際はちがうということを思い知りました。

葬儀の最後の手順が終わろうとするとき、
つまり火葬場で焼いている最中、
親族だけで控え室で会食をして待つわけですが、
この席で、ひと言挨拶を求められました。

しかし立ち上がったものの、言葉が出てこないのです。
正確にその状況を書けば、言葉を出そうとすると
感情がフラッシュすると同時に嗚咽になりそうになるのです。
これまでの母との生活というかいろいろなことがらが
はじめて噴出したといったらいいでしょうか。
すっかり立ち往生してしまいました。

言葉の出ない喪主と、言葉を待っている親族と葬儀状の担当の方。
しばし沈黙の時間が流れました。

いま思うと、頭で理解している自分のことなど、
当てにはならないということ。
そんな理解は、ちっぽけなものだという思いです。
自分のこころの奥底には、いろいろな閉じ込めてきた
マグマの層があって、まだまだエネルギーに満ちています。
ことあれば噴出するものです。

虐待とネグレクトを受けた家庭環境から、
目をそむけて、逃れるようにこれまで生きてきた自分です。
しかし、そういう頭での理解(理性的な自分)とは別に、
感情という自分でもよくわからない水脈のようなものが、
胸の奥底に流れていて、感情については簡単には、
縁切り出来ていないということを知りました。
やはり感情の浄化というものが必要なのです。

またこの件については書きたいと思っています。



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2012年11月 4日 (日)

意識に関するむつかしい問題

意識の問題についての続きです。

哲学の古い論点だった主観と客体というところと少し関係します。
そこにリンゴがあり、それを見ている自分がいるとします。
リンゴという客体を向こう側に置いた自分が主観ということになります。
対象と自分とは向かい合っているという関係になります。

ここでややこしいのは、自分のことを反省しているときには、
自分のおこなった行為とか発した言葉が客体になります。
しかし、さらに、自分全体を考えるということもできます。
自分はダメなヤツと考えているときは、
自分の丸ごとの存在が、客体になります。

何をやってもダメなヤツと、自分を卑下したとします。
そのとき、そんなことを思い嘆いているこちら側の主観は誰なのか?
ダメな自分を見つめている自分は誰なのか?
という問題が生じます。

ダメな自分を見ている自分は、ダメではないのではなかろうか。
ダメなヤツと自分を見ている人は、少し賢い人のはず。
だって少しは賢くないと、ダメだと自分を断罪できないはず。
ダメなヤツと言っている本人が本当にダメならば、
ダメなヤツという言明自体がまちがっているかもしれません。

ところで、こんなややこしい問題は本題ではないし、
あまり重要ではありません。
重要なことは、幸せとか生きがいとかのことがらは
向こう側の対象物、客体にはなじまないということです。
いくら幸せというものを定義して、向こう側のものとして規定して、
それを追求して手に入れても、それは幸福感を与えてくれません。
お金があること、地位があること、皆から敬服されていること
などといろいろと条件を取り上げても、
それらが幸福というものにはつながらないということです。

言い換えれば、けっして対象物にはならない物事が
世の中にはあるということです。
幸福とは、こちら側にあります。
つまり主観側の状態にあります。
こちらの事柄こそ追求すべき内容なのです。

大金持ちの男より、浜辺で寝そべって
波音を聞いている貧乏人の方がはるかに幸せに満ちている
というようなことがあります。
主観の状態のひとつなのですから。
だからといって、浜辺に寝そべっていれば、
幸福感に満たされるかというと、
それは正しくありません。



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2012年11月 2日 (金)

ヘンな話ですが、本当です

ムカデに向かって、そんなにたくさんある足を、どうやって操って
歩いているのですか、と尋ねました。
ムカデは、はて?と考えこんでしまい、それからうまく歩けなくなりました。
こんな話を、どこかで読みました。

人間の実際の話ですが、歩いている状態の足を無理に意識しようとすると、
うまく歩けなくなります。人前で歩くときなど、この状態に近いです。
どこかぎこちなく、なんだか突っ張ったような足になるのです。

この意識するという問題。あるいはこの意識。
いろいろな人生の問題において現れてくる厄介な、
そしてトリッキーなものです。
ここに足を捕らえられてはいけないと思います。
でもたいていは、このトリッキーな部分にひっかかります。

少し飛躍しますが、幸せというものは、
たぶん意識していない領域にあると考えてます。
意識して、つまり努力して、「幸せだ」と思ったり、
幸せを確認するということはできないのです。

一所懸命に仕事をしている、何かのために汗水をたらして
懸命に努力をしている、こんなとき他人から見ると、
あなたは充実した日々を送っていると見えるのです。
もっと言えば、「幸せの真っ只中」にいると見えるのです。
でも本人には、何のことだかわかりません。
まして自分が、充実しているとか幸せだとか思う瞬間はありません。

たぶん、自分の幸せや充実感を確認できるのは、
そういう一所懸命な日々の自分の状態を、
いったん離れたときではないでしょうか。

そうすると、ヘンなことがおきます。
努力した先に、幸せを感じる状態が出現することはないということ。
幸せはそういう視野の中には生じてこないのです。
幸せかどうかなんて考えずに、目の前の課題に
取り組んでいるとき、幸せを度外視して生きているときに、
あなたは充実し幸せそうに見えるのです。
いや幸せな状態なのです。
ヘンな話ですが・・・



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