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2013年1月22日 (火)

終着駅に着いた

今月の3日の朝に、父が急死しました。
正月の葬儀というのはなかなか大変で、
焼き場すら正月が明けないと利用できないのです。
長男のため、いちおう喪主ということになりましたが、
離れて暮らす自分には、いろいろと実家の事情が
つかめないことも多々あり、葬儀が終わり、
かなり疲れましたね。

確執続きの両親と、昨年末から今年の正月にかけて
急にお別れをしたことになります。
お力を落とさないようにと、お悔やみの言葉を
たくさんいただいたものの、不謹慎といわれそうですが、
そういう気分はまったくありませんでした。

60年余りのもやもやした割り切れない気持ちも、
もう終着駅に着いたのかもしれないと感じていました。
別の言い方をすれば、肩の荷を降ろしていいのかもしれない
という気分です。

そういう内面の自分の姿は、親不孝ものの極みでしょう。
子ども時代から親の愛情を感じたことがなかった自分には、
親を慕う気持ちは、ほぼ皆無です。
たしかに育ててもらった養育の恩義は事実としてあります。
でもそこに感情は伴わなっていないことを白状しなければなりません。

愛情を受けてこなかった自分が、
はたして家族を持って家族を愛していけるのか、
そんな資格があるんだろうか、
という特殊な悩みをずっと抱えて生きてきた自分です。

でも、もう生前における関係は終了です。
通夜際の会食で、おなじく苦しめられてきた実の妹と、
腹を割って話し込みました。
たぶん50年ぶりくらいでしょう。
周囲のものも妹の顔がパッと明るくなって驚いたといっておりましたが、
これから妹は元気になっていくと予感しています。

この記事を書くことに若干のためらいがありました。
家族にはとうてい理解できないことだと思います。
しかし、そういう親子関係が世の中に事実としてあったのです。


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コメント

はじめまして。50歳主婦、やはりトラウマを抱えています。父とはここ数年、全く連絡をとっていません。育ててもらった恩は確かにあるし、愛情が全くなかった訳ではないだろう。父ももう80歳、このまま別れてしまって本当に後悔しないだろうか、自分の生き方は間違っていないだろうか、迷うこともありますが、父と連絡を絶ってから、悪夢を見ることもなくなり、正直、楽になったんです。きっとこのまま、生きている父と会うことはないと思います。
貴方のブログを読んで、涙が溢れました。慰められ、考えさせられました。ありがとうございました。そして、お疲れさまでした。ご自身を責めることなく、穏やかな日々をお過ごしください

この度はお父様のご冥福心よりお祈りいたします。

何はともあれ喪主としてお努め差し上げられて良かったんだと思います。

>そういう内面の自分の姿は、親不孝ものの極みでしょう

私も同じです。


>愛情を受けてこなかった自分が、
はたして家族を持って家族を愛していけるのか、
そんな資格があるんだろうか、
という特殊な悩みをずっと抱えて生きてきた

私は両親、妹、誰とも心を通わせることができず
人づきあいも上手くなかったので、
思春期には、とにかく、愛するひと、というよりも「縋る人」が欲しかったです。
とにかく自分を分かってほしい、認めてほしいとその思いが強くありました。

そのくせ、人に優しくされると怖くなって動悸がしてしまうんです。
人を欲してるくせに、手を差し伸べられると怖いなんておかしいですよね。
でもそんなことされたことがなかったから困ってしまったんです。
どう反応していいのかもわからなかったです。
家庭では暴力か無視か真冬でも土砂降りの雨の中でも
外に出されてる、だったので、笑ったとか
楽しく会話したこと、優しさに触れることもなかったので・・・。


今もまだへんてこりんですけど(w)、
子供達との生活は楽しいです。
自分の血が混じってるからなのでしょうか・・・?
夫婦間の方が難しい、、かな?と思いますw


私は自分は自分と思えるようになるまで、
とにかく長い期間を必要としました。
でも、そう思えたことで変われたような気がします。
いいのかわるいのか、変えたのは自分でした。

しのぶさま
コメントありがとうございました。
自分のような特殊な環境に育ったものにとって、
苦しみは2重になってやってきます。
世間的に正しいとされる親子間の恩義の道に
外れて行動している自分の姿(親不孝の姿)に、
また悩むのです。
でもこの問題は、そっとそのままにしておいて良いと
考えています。自分をより苦しめる方向へ
いざなう必要はないと思うのです。
そのことをキッパリと明言しているのが、
『毒になる親』の著者スーザン・フォワードです。

Lilys Gardenさま
コメントありがとうございました。
納骨を残していますが、ともかく終わったなという気持ちです。
これからも日々を、家族とともに大切にすごしていきます。

I-marshさま
コメント寄せていただいてありがとうございます。
愛情を受けて育つことができなかった子供は、
やはり自分は普通ではないとどこかで感じます。
友人との会話や、友人の家庭のやり取り、
あるいはそういう親子間の話題などで。
こういうことからコンプレックスを抱くこともあります。
自分に確信がもてず、どこか宙ぶらりんな存在に感じるのです。
でも人は他人にはなれませんね。
自分は自分で、そのことをほんとうに認めてあげることが
出発点だと思います。そして自分を幸せにする方向へ
自分から踏み出すことだと思います(受身ではいけません)。

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