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2013年3月19日 (火)

達磨さんの逸話

達磨安心(あんじん)という話が好きです。
禅宗の公案のなかに出てくる話しです。

達磨禅師が仏教を伝えるためにインドから中国に入りました。
時の皇帝に面会したところ、まったくその器でもなく、
機運もないために、中国の田舎に引っ込んでしまいます。

その田舎の洞窟で、壁に向かってひたすら座禅をしていた。
面壁九年とはこのときのことを言ったものです。

そこへ神光という最初の弟子になる人がやってきます。
こころが不安で仕方ないという悩みをかかえています。
達磨に教えを請うのですがまったく相手にされません。
そんな、なまっちょろいことで仏教の教えなど理解できるものか!
と言わんばかりであったらしい。

雪降る中を一晩中立ち尽くして、達磨の教えを請います。
でも振り向きもしないということであったらしい。
神光は、片腕の肘を切断し、それを達磨に差出し、
こんなに真剣なのだと訴えます。

ここから修行が始まるのです。
達磨は問います。
何をそんな苦しんでいるのかと。
心が不安で仕方ありません。安心したいのです。
と応えます。

達磨の有名な問答は、それならその不安なこころを
ワシの前に出してみろ、そしたら安心させてやろう、
というものです。

そこで慧可(神光から改命)は不安の正体を捕まえようと、
たぶん何年間も苦労を重ねて追い求めます。
でもその結果は、否定的に終わります。

ついに達磨の前で、ひれ伏すように、
不安なこころがどうしても捕まえられないと
泣かんばかりに訴えます。
(おそらく泣いていただろうと想像します)

あらゆる追求、あらゆる努力、あらゆる修行を重ねても、
解決が遠のき、目処すら立たないとき、
人間の精神は極限まで追い詰められてしまうのです。
叩きのめされてしまい、目の前が真っ暗という経験はあるのです。

そこで発した達磨の言葉は、あっけないほど簡単で、
かつ不思議なものでした。
「たったいま、お前のこころを安心させ終わった」

この達磨の一撃で、慧可は悟り(解決)を得ました。
禅宗の第2祖となった瞬間です。
これが達磨安心というお話の概要です。

禅の修業ではこの公案を、追尾して再体験することを
求められるそうです。
なぜ慧可は問題を解決したのかを答えよというわけです。

自分は禅の修業の経験もありません。
ただ、この話が好きで、40年くらい頭の中で、
この問答を反芻してきただけです。

この話が好きな理由は、
慧可が死に物狂いで不安なこころの実態を捕まえようとしたのに、
ついに捕らえることができなかった、という言明にあります。
そこにある物のように、しっかりした実体があるのかというと
不安なこころは無いのだ、という事実です。

では何にも感じないのかというと、そうではありません。
日々の悩みや苦しみは、はっきりとして目の前にある。
なので、これは矛盾しています。
なぜなのだろうということになります。

このへんの答えは、禅仏教の根本にある、
ほんとうの自己というものに関係していると考えます。

臨済宗の始祖の臨済の講和の中に、
「赤肉団上に一無位の真人有り」、という有名な言葉があります。
無位の真人と呼んでいるものは、不安など抱きようが無いのです。
そして誰にもこの真人が出入りしているのだと臨済は言います。


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