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2015年8月 1日 (土)

すでに持っている、すでに!

中国唐代の禅僧、香厳和尚はとても頭のいい方で、
博学才英のエリートだったらしい。
しかし修行しても心境が進まない。
師匠から、お前は頭が良くて、学者だ。
なんでも頭で分かろうとするから
悟れないのだと言われてしまう。

そこで持っていた山のような書籍をすべて焼いてしまった。
しかしそれでも修行は進まなかったようである。
自分にはその才がなく、もう修行もやめようと絶望して、
師匠の元を去った。
そののち尊敬する忠国師の遺跡のお守りなどをしていた。

雑草をぬき枯葉を焼いて掃除をしていたときのこと。
香厳は落ちていた小石を竹やぶめがけて投げつけた。
その石は竹に当たってカチーンと音を響かせた。
そのときようやく香厳は、意味をふかく理解した。
悟りを得たといわれている。

ボクは思う。
人は幸せや富を求めて、いつも外側にそれを探す。
いまの自分ではダメだ、いいものは外にある。
その遍歴を繰り返している。しかし、それを見つけたと思っても、
見込み違いだったり、ちがうものを捕まえてしまう。
しかもそれになかなか気がつかない。
こんなことを繰り返すうちに一生が過ぎてしまう。

大切なものは、すでに持っている。
すでに手にしている。
それが納得できない。
そこに不幸の原因があるということがわからない。

香厳和尚は、外に求め続けた。
でもそれは本物とはなりえない。
得たものは、外からやってきたものでしかない。
いくら本を読んで知識を増す努力をしても、方向が違う。

いや手にするというのは、 いかにも獲得するような言い方で、
正確ではない。それでは得る自分と、得られるものが分離している。
気がつけば自分がそうであったという発見なのだ。
得るべきものが自分であったというべきか。
その深い自覚なのだと思う。

道元禅師は、退歩すべしという表現をしている。
進歩するのではない。
自己をならうというのも同じことだと思う。
竹の音は重要ではない。
何でもかまわない。朝日が昇ることでも、
つまづいて転んで痛い思いをするのでもいい。
それまでわからなかった、ほんとうの自分というものに
触れる契機となるならそれは何でもいいのだ。



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