心と体

2012年6月26日 (火)

がんばるとか、努力するとか言ってきたけど・・・

藤原和博さんの『坂の上の坂』という本を読みました。
この本は、司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』を下敷きにしている本です。
司馬さんの本は、明治維新から日露戦争までの日本人の頑張りを描いています。
日本という国家の青春時代を描いた小説です。

藤沢さんの本は、ちょっとひねりが入っています。
つまり、頑張って頑張って、坂を上っていって、
ようやく坂の上から望むと、ロマンの雲が空にかかっているのではなく、
その先にはまだ上り坂が続いていたということを表しています。

『坂の上の坂』のなかで、藤原さんは、日本人の遺伝子には頑張る教が
刷り込まれているという趣旨のことを書かれています。
西洋文化を取り込み、追いつき、追い越すためには
国民あげての努力とか頑張りとかが必要でした。

自分の子供時代を振り返ってみても、
努力すること、頑張ることは、疑いようのない「正しい価値観」でした。
たぶん現代においても、あらわには意識されないにせよ、
その価値観が、日本人の本能に刷り込まれていると思っています。

昔からあるジョークに、こんなものがあります。
浜辺で一日のんびりとくつろいでいる男がいました。
そこへビジネスマンがやってきて、一所懸命に働くことを勧めます。
浜辺の男は、聞き返します、何のために苦労して働くのか、と。
ビジネスマンは、社会で成功を収め、高い地位を得て、
高い報酬が約束された生活を得るためだと答えます。
浜辺の男はふたたび聞きます、
その生活はなんのために手にするのか?
するとビジネスマンは、成功の先にある生活のイメージを考えたことが
なかったことに気がつきます。
そうだね、のんびり一日浜辺で海でも眺めていようかな・・・

頑張る教は、日本の社会が高度成長するにも、
とても威力を発揮しました。でもその先の幸福については、
あまり問うたことはないのです。
何のために頑張るのか?
まあ、努力していれば、きっといいことがあるさ・・・
そんな程度でした。

働くことが自分の目指す目標にリンクして努力している人は、
それで幸福なのです。
でも、なんとなく頑張るとか、とりあえず努力するというのは、
行き先も目標もはっきりしないまま、全力疾走するようなもので、
さあ、自分はどこへ行くのでしょうかと人に聞いているようなもの。

先日ニュースを賑わせた、O真理教の逃亡信徒たちの姿と
どこかダブって見えてしまいます。

日本では、努力とか頑張るとかの言葉は、
ほぼ無批判に受け取られています。
美しい言葉ですらあります。
学校の先生方も、二言目には口にするのではないかと思います。
でもそれは本当に正しいのか。

頑張る教の教義に照らすと、頑張れない自分、努力できない自分は
許されないことになってしまいます。
努力できない自分を責めたり、頑張れない自分を責めるという
自然ではないメンタリティを形成します。
でもこれは自然ではないですね。あるがままではない。
疲れるときもあるし、のんびりしたいときもある。
これらをまず認めた上で歩まなければいけない。

多くの人を苦しめてきた言葉でもあると感じるのです。


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2012年4月20日 (金)

この年になるまで、気がつかなかった

少し前ですが、「あること」に初めて気がつきました。
自分自身の幼少期から成人するまでの長い期間における親子関係にかかわる事柄です。

すでに還暦を過ぎている自分が生涯で初めて気がつくということが異常でした。そのくらいこの問題は根が深いのですね。つまり児童虐待を受けた人間の心理に関することです。

そのことを書くべきかどうか迷いました。その事実は決して自分にとって得するものは何もない。できたら封印しておきたい気持ちにもなります。でも気がついた以上、それを表白する気持ちに駆られている自分がいます。また同じ境遇に晒されている人に、ひょっとして参考になることかもしれないと思います。

ひと言でいえば、自分には親から愛された体験や記憶がないという事実です。そしてその事実に先日まで気がつかなかった。世間ではそれが普通のこと、よくあることのように感じて生きてきたこと。

いぜんこのBLOG記事で、虐待を受けた子供はその虐待の事実を認識しないという内容を書きました。NHK番組で、虐待カウンセリングを受けている柳美里さんを追った番組に触れた記事です。http://dobanimuchi.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/tv-63e4.html

幼児期から続くネグレクトや虐待により、被害を受けている側にはネグレクトや虐待を意識できない精神状況が出来上がる。というよりそれが普通になり、世の中の基準にすらなるということです。またこの年齢になるまでそこに疑問を差し挟まないものだという驚きです。

受け続けていた待遇の異常さ、それから逃れたいという強烈な思いはつねに抱いていたものの、それを言語化したり表出することができないのですね。そういうものなんだという認識にとどまってしまう。

その理由は比較的単純な説明がつくと思います。逃れたいと思っているその状況は、自分自身の内面の一部に化しているために、客観的に切り離して他者として扱えないのです。幼児期から始まる、精神の骨格部分が形成される過程で、その異常な環境すら自分の栄養として取り込んでいくメカニズムがあると思います。

でもその異常な環境の取り込みによる影響は、成人してからも機会があるごとに顔を出していたのだと気づきます。ときに自分の行動の理由が分からなかったり、自分の感情をもてあますという事柄の根にあるものは、たぶんこれに関連しているのだろうと思います。これは今後解明しなければならないと感じます。

2011年2月17日 (木)

欲しいもの

馬齢を重ねてくると、自然にわかってくることがある。何かをきっかけにわかるというのでなくて、ああやっぱりそうなんだな・・・としみじみわかる理解の仕方。禅に、頓悟と漸悟という言い方があるけれど、この後者のようなものだと思う。年をとれば、少しは賢くなって当たり前だという感じ。

そのひとつに、自分の人生の大半は、欲しいものを追いかけてきた時間だったということ。その欲しいものは、欲しいと思わされてきたものだったかもしれないけれど。
高度成長期というのは、それが原動力になっていて、欲しいものが次々と現われては、それを追い求める繰り返しだったかもしれない。いつも無いものを求めるという姿で、ウン十年も過ごしてくるとそれが当たり前になってしまう。

しかし、たいていのものを手に入れて、欲しいものが次第に少なくなってくると、同じ精神状態では立ち行かなくなってくる。手にしていないものを手にすることで、満足感を覚えるということは、成り立っていかない。何を求めたらいいのか、どうすればいいのか?という思いとともに、やはり物をたくさん持つということで人生を過ごしてきた事実が、ぼんやりと自覚されるのだ。

よく考えてみれば、これは精神的にはとっても貧しい。人生の充実感とは何なのか、自分の幸福とはどうなることであるのか、それを問わずに人生の大半を過ごしてきたということである。もっているさまざまなものを点検をすれば済む話ではない。

木々の葉の上に、しずくがのっていて、光を浴びてレンズのように輝く。枯れ葉の縁に、霜が下りて衣裳をまとっている。あるいは、暮れ行く山の稜線が黒いシルエットになり、生ぬるい風が頬をなでていく。こういう瞬間に、自分は確かにこの世界の中につつまれて生かされてきたんだと実感する。欲しかったものを持つことで満ち足りる世界とはまったく異なる、自分の現在、自分に与えられたものごとに気づくこと、どうもその辺に鍵があるように思う。

Srsany0086

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2011年1月23日 (日)

にせ善人

若い頃に、森田正馬博士のノイローゼ療法に関する著作をたくさん読んだ。森田博士には水谷啓二という高弟の方がいて、やはり著作をたくさん出されていて、こちらもむさぼるように読んだ。いまでも心に残るのは、水谷氏の『にせ菩薩になるな』という教訓だ。

当時、あまりこの意味がすっと飲み込めなかった。その理由は今ではよくわかる。頭の中が観念的で、実践的でなかったということなのだが、その答えを言葉として聞いただけではたぶん理解しにくいと思う。若いということは、経験が少ないわりに(少ないから)、頭の中は抽象的で観念的ということでもある。

菩薩と表現されているのは、むろん理想的な人間の生き方として賞賛されるべきものだ。だが、その生き方を貫くためには、世の中に在るありとあらゆる苦労、悲嘆、不運などをすべて包括する度量が備わる必要がある。さらにその人々を救うという大願を立てるのだから、人間力としては最上のものを要求される究極の生き方だと思う。もちろん若いひとのなしうるものではないと考えている。

ところが知性に優れ、情感に深く人の苦しみを見過ごせない優れた若い人は、えてして菩薩であろうという生き方を選ぶ。あるいは菩薩に少しでも近づこうと。・・・それはとても尊いもので、まったく責められるべきものではない。

しかし若いがゆえに観念的でその生き方が空回りするということなのだ。外見を覗くかぎりいつも人に対してはにこやかで、親切で、菩薩のような完璧な振る舞い、まちがいの無い完全な生き方というものを、演じているという状態が続く。そして自己の内部でその演技ぶりが、とてつもない疲労感となって襲ってくる。

その観念的なうわべの生き方と、自分の内部の本心とが、だんだん乖離してそれに耐えられなくなって、いつかバースト(破綻)してしまうことが起きる。正常な生活が営めなくなってついに精神科などに入院するというようなことがあったのだ。そのことを念頭に、『にせ菩薩になるな』と、水谷氏は著作に書かれたわけだ。

若くして組織の中で人の上に立つことになった場合などにも、同様な悲劇は起きる。いまふうに言えばウツ症状に陥るわけだ。

「いつも人にやさしく、完璧な対応をしなければならない」と固く信じているとしたら、それはとても危険。悪意を持つ人に対しては毅然と闘わなければならないし、怠惰な人には厳しく叱咤激励する態度だって必要なのだ。にせものの善人になってはいけないという教訓なのだ。

とはいっても若くて人生経験の少ない人にとって、これはかなり難しい課題であるのは確か。では、どうしたらいいのか・・・言葉で表すのはとても難しいね。苦労が君を育てるだろうといったら突き放しすぎか。



Srsany0022
庭に咲いたクリスマスローズ(8月)


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2011年1月22日 (土)

大切な離別感というもの

子供みたいなわがままな願望を周囲や他人に押し付ける困った大人が多いことが、カウンセラーの衛藤信之さんの著書に出てくる。


『たとえば、ご主人が一杯機嫌で、ケーキをおみやげに帰宅したときに、たまたま体調が悪くて奥さんが横になっていたとします。
奥さんはご主人に気遣って、「あなた、ごめんなさい。せっかくのケーキだけど、今日は調子が悪くて食べられそうもないの。冷蔵庫に入れておいて、明日いただくわね」と食べられない理由をていねいに説明します。

ところが、ご主人はそれが許せません。「なぜ、オレが買ってきたみやげが食えない」「おまえはとにかく喜んで食べるべきだ」と文句をつける。

それだけでなく、「おまえは家にいるだけなのに、なんで体調を悪くするんだ」などといいがかりとしかいいようのない難癖をつけて奥さんを責めはじめます。

衛藤信之著『今日は、心をみつめる日。 』p.139』


この部分を読んで、おもわずヒザを叩いてしまった。つまり自分の周囲のある人物(Aさんとしておこう)を思い出したのだ。Aさんのことを言っているのかと思うほどだった。

決してAさんは悪い人ではない。むしろある人には親切でありいろいろと人のことを心配もし可愛がるほうだ。だがこの人は好かれていない。むしろ周囲のだれからも敬遠されているといっていい。自分流の親切の押し付けが、なんとも堪らないのだ。けっきょく人を束縛し自分の子分にしてしまうところまでいく。子供時代なら可愛げがあるが、中高年になろうというような人にまで同じなのだ。

相手にされないために、相手をしてくれる人をいつも探している。そして誰かが捕まっているのを見ると、なにやらホッとする。「やれやれ、あちらの方に行ってくれた」と胸をなでおろすような人物なのだ。

衛藤さんの本によると、このような人は心理学的には「健全な離別感が形成されていない」というそうだ。離別感とは、「相手は自分ではない」ことをきちんと自覚し、互いに一個の独立した人格を認め、尊重しあうことだと。さらに、自分がハッとしたのは、次の言葉。


『ではその健全な離別感を阻害する要因は何でしょうか。それは相手に過剰なまでに見返りを期待したり、相手に度を過ぎた所有欲を抱くことです。「与える」とは反対の、「求めすぎる心」です。 

同書 P.141』


相手を可愛がっているようでいて、実はそうではないところが錯綜している。可愛がっているのでなく、自分を受け入れる相手を求めているだけだということだ。健全で対等な友人関係がつくれない。相手はいつも逃げていくので、最後には寂しい思いに陥る。幸せなゆったりとした人間関係とは無縁になる。

もっと言えば、自己愛の範疇から出ていないということなのだろう。相手に対して、自分を愛し自分をより所にして欲しいと願うということは、自分を思い切り可愛がり愛して欲しいといっているのと同様だ。いわゆる愛の渇望。さぞかし苦しいことだと思う。


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昨年のイングリッシュローズの開花


 

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2011年1月21日 (金)

ハッピーという状態

人間というのは、苦痛とかイヤなことには敏感にできている。それは自分が傷つかないようにしている自己保存の本能なのかもしれない。でもこればかり発揮していると、平穏に暮らせなくなってくるというヘンなところがある。

人間は、いま持っているものに対しては徹底的に鈍感。あって当たり前の感覚に陥っているものだ。そしていま足らないものや、苦痛なことが頭を支配している。現在持っているものへの関心と、これから欲しいものへの関心のバランスは、相当に後者に偏っている。まあ前者への関心はふだん頭に上らないといっていい。

でもそれはやはり考え方が相当に偏っていて、それがもとで自分でウンウン苦しんでいるということが多い。出世が遅いとかお金が無いとか、容姿がとかいろいろな悩みが日常襲ってくるわけだけれど、健康診断などで精密検査が必要とか腫瘍の疑いがあるとか、生命にかかわるようなアラームが点ると、いっぺんに日ごろの悩みなど吹っ飛んでしまう。

それはなぜかと考えてみると、命をいただいているという根本の事実を忘れて、日頃は、ああだこうだと贅沢なことをこぼしてきたからなのだ。命をいただき、健康でいられていたこと、自分が当たり前としていた持っていたものの存在に気づくのだ。もし不幸にして重い病気に罹ったことがハッキリしたような場合には、それまでの日常の平凡な暮らしの日々が輝いて見えることだろう。失ってはじめてその存在を知る、ということは多いよね。

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            駒ヶ根 天竜川の河原付近から中央アルプスを望む

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2011年1月18日 (火)

こころの疲れ

こころが疲れる状態というのがある。医学的にどうなった状態をさしているのかはわからないが、緊張が続いたとか、安らぐ時間が持てなかったとか、こころを酷使しつづけるときに感じる状態。

仕事で心身が疲れるならば、適度なタイミングで休憩を取ればいい。やっかいなのは、自分で自分のこころを追い詰めるようなことをしている場合。けっこうこれは多いと感じる。追い詰めてしまうのも自分なので、逃げ場がなく、ずっとストレスをかけることになる。

まじめな人とか、人に誠実な人が陥りやすいと思う。人には常にやさしく、しかも完璧に接していなければならないと、強く思い込んでいたりするとけっこうヤバイ。あと仕事は完全にこなさなければならないと堅く信じていたりすると、これもヤバイ。

世の中で「よい」と言われているものの中には、際限のないものが多い。人にやさしく接することを自分の生き方の信条にすえて、そのルールを自分の行動に課してしまうと、逃げ道がなくなるところがある。どこまで尽くせばやさしく接したといえるのか、その境界線は漠然としているからだ。完全を期すがゆえに、無限の労力を投じるような側面がある。

「よい」と言われていることがらは、けっこう危ない要素を持つというわけ。なぜならこころを完全に束縛してしまうから。世の中は、「ほどほど」とか「適当に」とか、そういういい加減に聞こえるやりかたで処理しなければならない場合がたくさんある。

そんなことを書いているうちに、ふと思い出した詩がある。吉野弘さんの「夕焼け」という詩。やさしい心を持った人は、いつも受難者になるという趣旨のフレーズが入っている。
有名な詩だから、WEBでも読める。もし興味があったら覗いてみてください。
吉野弘さんの詩『夕焼け』

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2011年1月17日 (月)

やらされ感

ふだんあまり使う言葉ではないけれど、けっこう重要な意味を持つ言葉だと思う。「やらされ感」という言葉。

自分の場合、サラリーマンという職業をえらんで、31年もそれを続けてきた。ほんとうは芸術系の進路を希望していたけれど、いろいろな反対に会い、結果的に技術者として生活する道をえらんだ。まるで正反対なところが自分でもおかしい。でもこころにはよくないことだったと思う。

個人事業を営むならば、人の関係に悩むことはがぜん少ないけれど、会社という組織に入って集団で(チームで、あるいは課で)仕事をするとなると、自分の意に染まない決定事項なんて山ほどある。自分がまちがっていると感じていても、その方針が決まってしまうこともある。自分勝手な言い分をいちいち通していたら、みなバラバラで仕事が進まない。

自分の考えとはちがう方針でも、それに従いその報酬を得る(つまり給料をもらう)ということばかりつづく。たとえ自分が小さなグループのリーダーになったとしても、さらにその上の組織の中においては、ただの一兵卒になってしまう。部下を従えているだけだ。

こうやってこころに折り合いをつけて、なんとかかんとか暮らしていく年月が増えていくと、こころは次第に順応していく部分も出てくる。自分の本心が曖昧になり、はっきりわからなくなっていくともいえる。こうして中高年になり、定年を意識するような年代になると、自分って何だっけと思い出せなくなってくる。これはとても危険な兆候だと思う。仕事中心、というか会社中心の生活をウン十年と続けるうちに、自分イコール会社生活になる。

会社員の頃元気だったひとが、定年になっても会社との関係を保とうとして、旧部下に連絡を取ったり、会社の近くの公園でブラブラ過ごすという人の話も聞いたことがある。奥さんとか家族とはもう完全に切れているんだね。だからいろんな悲喜劇がおきる。

そうなってしまうそもそものきっかけは、若い頃に意に染まない仕事を命じられたときの「やらされ感」をはっきり自覚できたかどうかだと思う。これはやらされている状態なんだと自覚するかどうかだと思う。会社を離れる勇気がないならば、自分の考えとは反対の方針であっても、懸命にやらなければならない。しかし、それを「自分の本心だ」とは思わずに、いつか自分の考えるように仕事をしてやるんだと闘志を秘めた方がはるかにいい。やらされ感をごまかして、本心を封印してしまう生き方は、のちのちいろんな問題を引き起こす発生源になる。自分の経験からよくわかるよ。

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2011年1月16日 (日)

自分を否定するのはまちがい

長年、生きてきたんだなと改めて思う。昨年、還暦というヤツを迎えてしまったわけだし。
むかしは、馬齢を重ねるなんて言い方もした。馬が何年生きるのか知らないし、馬がいくら長生きしても、それは無駄な年月だと言っているわけで、とても馬に失礼なはなし。まあ自分の生きてきた年月を謙遜して言っているわけだ。

これまでの人生を振り返ると、いちばん強く感じるのは、自分を否定する考え方は(まちがいなく)まちがいだということ。人間には理性とか抽象的な考えができるので、自分の存在を否定して生きるようなヘンな状態もできてしまう。

動物だったら、こんなヘンな考え方は決してしない。たとえば、自分がサメだったとして、サメである自分は、人間や他の魚からは恐れられ、だれからも愛されていないし、顔だってコワモテしてハンサムじゃないしと、いろいろと反省して、自分の存在を否定していました、ということは絶対にない。サメだって自分の持てる能力を万全に発揮しようと精一杯生きている。そこにぜんぜん否定的な要素は入っていない。

人間だけが、(そして敢えていえば経験不足で考えが未熟な人だけが)自分を否定すると考えている。人間も動物も植物も、自分の能力をいっぱい発揮して生きているのが本当の姿だと考えているからだ。自分の能力を自分を否定するために使うなんて、自己矛盾しているし、そんな状態が本来の姿だとは到底思えないからだ。自分の存在の死を願うために生きるということはヘンだ。また、それはこころの底からの本心だとは思えない。

ただ自分の存在と、自分のやっていることは分けなければいけないと思う。やってしまったことが悪かった、あるいはその行為はあってはならないことだ、ということはある。それには反省をして修正していけばいいのだと思う。

それなのに自分の存在自体が否定されたと感じてしまうのは、明らかに認識のひずみがある。拡大解釈ともいうね。認知療法はこのような認識のひずみを一つ一つ解きほどいていくわけだけれど、これはまた大きな話題になるので、また別の機会に。自分の存在を否定するのは、まちがいってことで、今日の記事はおしまい。

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